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第0268話 どうか、あの人が私を忘れられるように

 ――あの日の雨は、楽の音のようだった。


 小石を打つような小雨が、街外れの柳の葉を揺らしていた。

 その下で、ミレーユは傘も差さず、空を見上げていた。

 彼女はまだ、名のある遊女ではなかった。

 若く、美しく、そして――愚かしいほどに人を信じていた。


 雨宿りを求めて、旅の騎士がその木陰に入ってきた。

 肩に傷を負い、鎧には泥。

 その目は、戦場から戻ったばかりの者のそれだった。


 「濡れるより、立ち止まる方が難しい夜ですね」

 ミレーユの声は、雨のように細かった。

 騎士は微笑み、兜を外す。

 「……あなたのような人が、まだこの街にいたとは。」


 それが、二人の始まりだった。


 名を尋ねる前に、互いの沈黙を知った。

 剣を持たぬ手と、客を取らぬ夜が、そこにあった。

 彼の名はエルバン。

 亡国の騎士。主君を討たれ、流浪の身となっていた。


 彼は、死と名誉のあいだで揺れていた。

 彼女は、愛と贖いのあいだで迷っていた。


 夜が深まり、二人は小さな廃屋で雨を凌いだ。

 ろうそくが一本、雨音の中で震えている。

 ミレーユは、膝の上にその光を見つめながら言った。

 「あなたの剣は、誰のために?」

 「かつての主君のために。だが、いまは……あなたのために振るえるなら、それが救いだ。」

 「救いなんて、どこにもないわ。」

 彼女は微笑んだ。

 「それでも、人は誰かのために濡れるのね。」


 その夜、二人の手は触れなかった。

 ただ、雨が二人の間を流れていった。

 愛はまだ形を持たず、言葉よりも静かに息づいていた。


 翌朝、街の屋根に白い靄が立ち込めていた。

 彼は去り際に、ミレーユの髪を指でなぞった。

 「もし、もう一度この雨が降る夜が来たら、また会おう。」

 「約束は嫌いよ。雨はいつも、別の形で降るから。」

 「それでも、待っていてくれ。」


 ――それが、約束の言葉だった。


***


 時は流れ、彼は再び現れた。

 戦乱が続き、街は血の匂いに染まっていた。

 エルバンは、主君の仇を討つ命を受けていた。

 標的は、ミレーユの贔屓客であった男――商人ギュスターヴ。

 そして、皮肉にも彼の家族が、ミレーユのもとへ訪ねてきたのだ。


 「どうか、あの方を止めてください。息子は、復讐に囚われています。」

 老いた母が泣いていた。

 「あなたの言葉なら、まだ届くかもしれません。」


 ミレーユは、心が裂ける音を聞いた。

 その夜、再び雨が降った。

 彼女は、あの柳の木のもとで待った。

 昔と同じように、傘も差さず、ただ空を仰いで。


 やがて、闇の中から足音が近づいた。

 濡れた鎧、疲れた目。

 「……来ると思っていた。」エルバンの声は低く、震えていた。

 「あなたは、仇討ちをするつもりなのね。」

 「そうだ。だが、それを止められるのは……」

 「やめて。」ミレーユは言葉を遮った。

 「私はあなたを救えない。あなたの剣が誰を斬るかを、私には見たくない。」


 沈黙が二人を包む。

 雨が再び強くなる。

 「別れよう、エルバン。あなたの道と、私の祈りは交わらない。」


 エルバンは唇を噛み、剣の柄に手をかけたが、

 それは怒りではなく、涙を押し殺す仕草だった。

 「……愛していた。」

 「ええ。だからこそ、さよならなの。」


 彼女は振り返らずに去った。

 その背中に、雨が滝のように落ちていた。


***


 ――数日後。


 エルバンは、仇討ちに失敗した。

 剣を振るい、鉄槌を投げたが、逆に討たれたという。

 その報せを聞いた夜、ミレーユは街を出た。

 誰にも告げず、ただ“死者の穴”へ向かった。


 祈りも、涙も、もう彼女には残っていなかった。

 彼女の胸にあったのは、ただひとつの願い。


 ――どうか、あの人が私を忘れられるように。


 その願いは、静かな石に変わる。

 風が止み、雨が途絶え、

 天と地のあいだで、ミレーユの時は止まった。


 彼女の唇には、微かな笑みが残っていた。

 愛を終わらせるための、もっとも優しい表情だった。

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