第0264話 “誤り”を、許したのかもしれない
鐘の音が、濡れた街に響きわたっていた。
それは本来、戦の終結を知らせる“吉報の鐘”であるはずだった。
けれどその日、鐘は不吉な雨を連れてきた。
午前の光が曇りに変わり、空から落ちる粒が灰を溶かす。
「四葉亭」の屋根に雨が叩きつけ、硝子窓を震わせている。
火の魔法使いマリーベルが窓際で煙草をふかしながら、呟いた。
「鐘を鳴らしたのは誰? 報せの刻印は“逆向き”だったわ」
カウンターに肘をついていたライネルが低く答える。
「報せを送る塔は北の端にある。合図は“凶報”に書き換えられた可能性が高い」
「つまり、誰かが意図的に“間違った合図”を流した……?」
「あるいは、手違いだ。だが――」
ライネルの視線が、扉の方へ向けられた。
その先に、黒い外套の客が立っていた。
雨の滴を引きずりながら入ってきたその人影は、ずぶ濡れのまま、ただ一言だけ言った。
「……“合言葉”を知らない者に会いたい」
マリーベルの煙が途切れる。
アリアが目を伏せ、手に持つ数珠を強く握る。
そして、風の盗賊シルヴィアが苦笑いを浮かべながら客に近づいた。
「へえ、妙なお願いね。
あたしたちは“合言葉を知らない”で飯を食ってるようなもんだけど?」
男はフードを下ろした。
青ざめた顔、雨で濡れた黒髪。
その唇が、どこかで聞いたことのある響きを持って開いた。
「……“息を返せ”」
その瞬間、空気が凍った。
マリーベルが立ち上がる。
「やめろ! それは――!」
だが、遅かった。
外の鐘がまた鳴る。
今度は鐘の音と同時に、外の雨が血のように赤く染まった。
街のあちこちで悲鳴が上がり、道の石畳が蠢き始める。
アリアが叫ぶ。
「“蘇り”の儀式よ! あの言葉、また誰かが――!」
ライネルは立ち上がり、剣を抜いた。
「……行くぞ。塔を確かめる」
北の鐘楼は、霧と雨に包まれていた。
螺旋階段を上るたび、濡れた石が靴底に貼りつく。
マリーベルが苛立ちを抑えきれずに言う。
「誰がこんなことを……“合言葉”を知るのは報せ役だけのはずよ」
「“逆”の者がいる」
ライネルの声は低く重かった。
「正しい報せを凶報に変える者。意図して、あるいは無意識に。
――それが今回の“敵”だ」
塔の最上階にたどり着くと、そこには巨大な青銅の鐘があった。
その脇で、ひとりの男が倒れている。
鐘守だ。息はあるが意識はない。
彼の指には、泥のついた小さな石片が握られていた。
それは、かの墓で掘り出した“言葉の欠片”に似ていた。
アリアが震える声で言う。
「……まさか、“墓に埋めた言葉”がまた……」
「そうだ。掘り起こされた“想い”が、現実を狂わせている」
ライネルが剣を構える。
「だが、まだ“敵”は別にいる」
背後で、風が渦を巻いた。
シルヴィアが軽く舌打ちする。
「いたのね……ずっとつけてきてた」
霧の中から現れたのは、あの“言葉の女”だった。
墓の底で消えたはずの声。
けれど今は、はっきりとした人の形をしている。
白い衣をまとい、唇だけが鮮やかに赤い。
「私を掘り出したのは、あなたたち。
でも、あなたたちは“伝えられない言葉”の意味を間違えた」
ライネルの喉が詰まる。
「……どういう意味だ」
「“息を返せ”――それは“蘇らせろ”じゃない。
“静めよ”の祈りだったの」
塔の窓が破れ、風が吹き込む。
雨が赤から灰色に変わり、鐘が低く鳴り始めた。
彼女の声は、鐘の共鳴に混じっていく。
「言葉はね、意図を離れた瞬間に、怪物になる。
あなたたちが墓を掘った夜から、ずっと――“意味”は暴走している」
マリーベルの手に炎が灯る。
「止めなきゃ。もう誰も、間違った言葉で死なせるわけにいかない!」
しかしライネルは剣を下ろした。
「……違う。これは、斬れない。
“言葉”は斬れないんだ」
雨脚が強まる。鐘が割れ、塔が軋む。
アリアが祈りの詩を唱え、シルヴィアが窓枠から外を見下ろした。
街のあちこちで人々が空を仰ぎ、同じ言葉を呟いている。
「息を返せ」――それがまるで、ひとつの合唱のように。
ライネルは叫んだ。
「もういい! “息を返す”のは俺たちだ!」
彼は剣を大地に突き立てた。
その瞬間、塔の床を伝って雷光が走る。
轟音とともに鐘が落ち、街全体に光の波が広がった。
雨は止み、霧が晴れる。
鐘の残骸の中に、彼女の姿はなかった。
ただ、ライネルの足元にひとつの石が転がっていた。
――人の形をした、小さな石。
それはまるで、誰かの“言葉”が固まったようだった。
ライネルはそれを拾い、静かに呟く。
「……人間だと思って切った。けれど、それは“石”だった。
言葉も同じだな」
シルヴィアが肩で息をしながら笑う。
「結局、あたしたち、何を救ったんだろうね」
アリアがそっと答える。
「――“誤り”を、許したのかもしれない」
そのとき、遠くで再び鐘が鳴った。
今度の音は澄んでいて、どこか安堵を含んでいた。
ライネルたちは顔を見合わせ、静かにうなずき合った。
そして、街の石畳に差し込んだ光が、
ようやく“現実”を取り戻したかのように輝き始めていた。




