第0263話 どこかで“再生”を予感させる
――夜明け前の霧は、まるで言葉そのもののようだった。
発せられれば消え、残れば腐る。
土の匂いと湿った風が混じり合い、ライネルはひとり、丘の上の墓地に立っていた。
彼の足元には、無数の名もなき墓。
どれも木の十字架が立てられただけで、墓碑銘も刻まれていない。
その中央にひとつ、浅く掘られた穴がある。
――“援助者”と呼ばれる老婆が、かつてそこへ「言葉」を埋めたという。
「言葉は死なない。けれど、誰にも聞かれないなら、それは墓に埋もれる」
老婆の声が、風の中に残響していた。
ライネルは剣を杖代わりにしてしゃがみこむ。
彼の横では、火の魔法使いマリーベルが苛立たしげに腕を組んでいる。
「こんな時間に墓掘り? まさか本気で“声を掘り出す”つもり?」
「依頼は“言葉を取り戻してほしい”だった」
「でも“誰の言葉”か、依頼主は言わなかったわ」
――四葉亭で受けた奇妙な依頼。
“亡き者に言葉を返してほしい”という女の頼み。
ただし、彼女は名を名乗らず、合言葉も知らない者にしか依頼は果たせないと言った。
そのとき、風がひときわ強く吹き抜ける。
マントがはためき、土が舞い上がる。
丘の向こうから、ひょいと軽い足取りでシルヴィアが現れた。
「遅かったねえ。もう掘り返してたの?」
「お前、見張りのはずじゃなかったのか」
「だって退屈なんだもん。で? 何か出た?」
マリーベルがため息をつき、ライネルが口を開こうとしたその瞬間、
地面の下から――ひとつの声が響いた。
それは、風と混じり合い、震えるような囁きだった。
聞き取れぬほどにかすれた声が、やがて明確な言葉を成す。
「……“息を返せ”」
マリーベルの顔が強張る。
「……今の、聞こえた?」
ライネルは頷き、剣の柄を握りしめる。
「“息を返せ”……それが、蘇りの合言葉か」
「まさか。言葉一つで死者を――」
その否定を遮るように、墓の下から冷たい風が噴き上がった。
土が崩れ、灰色の手が、墓の縁を掴んだ。
マリーベルが呪文を詠唱しかけたが、ライネルが制止する。
「待て。……まだ“完全に”戻っていない」
顔を出したのは、骨と土にまみれた女の顔。
けれどその口だけは妙に生々しく、紅を差したように赤い。
そしてその口が、ゆっくりと動いた。
「……あなたが……言葉を、掘り起こしたのね」
アリアが駆け寄る。
彼女の青いローブが泥に濡れ、震える手で祈祷を始める。
「穢れを祓え……水よ、清めたまえ……」
だが、女の“唇”は祈りを拒むように動いた。
「――違うの。私は、穢れじゃない。“伝えられなかった言葉”なの」
その瞬間、ライネルは悟った。
ここに埋まっているのは、“死者”ではなく、“未発せられた思い”そのものなのだ。
マリーベルが呻く。
「なんなのよ……言葉が人になるなんて、そんな理屈……」
「理屈じゃない。だが、魔法としてなら説明できる」
シルヴィアが軽く肩をすくめた。
「つまり――この墓、言葉の“死体置き場”ってこと?」
ライネルは、墓の底を見つめた。
声を掘り出すたび、風が唸り、過去の囁きが耳にまとわりつく。
愛の告白、罵声、祈り、嘘。
どれもが、伝わらなかった瞬間の“残滓”だ。
そしてそのどれもが、ライネルたちに問いを突きつける。
――言葉とは、誰のものなのか?
――意図せぬ結果が生まれたとき、その責任は、どこへ行くのか?
アリアの声が震えた。
「……私、怖いの。
伝えようとして伝わらなかったとき、
私の想いも、こうやって“墓に埋められる”のかなって」
ライネルは静かに首を振る。
「違う。
埋められるのは“言葉”じゃない。
――“後悔”だ」
その言葉に、風が止んだ。
沈黙が夜明けの光のように落ちる。
やがて、墓の女の姿が淡く霞み、土へと溶けていった。
残されたのは、短い言葉の欠片――「ありがとう」だけだった。
ライネルはそれを拾い上げるように、胸の中で繰り返す。
「……墓に埋めた言葉。
それを掘り出したとき、俺たちは“嫌な感情”の正体を見たのかもしれない」
マリーベルが、珍しく静かに言った。
「――それは、死者の声じゃなく、生きてる私たちの声だったのね」
風がまた吹き始める。
けれど今度の風は、墓場の臭いではなかった。
少し湿り気を帯びた、春の匂いのする風。
不吉な雨の気配を孕みながら、それでも、どこかで“再生”を予感させる。
丘を下りる四人の背に、朝日が差し込む。
その光が、まだ冷たい墓の表面に反射し、まるで何かを呼び覚ますように瞬いた。




