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第0261話 街は、いつも湿った息をしている

 雨の夜だった。

 といっても、ここでは雨の降らぬ夜など一年に一度あるかどうか。

 街は、いつも湿った息をしている。石畳の上を滴る水は、まるで言葉の残滓のように、

 消えかけてはまた形を取り戻す。


 酒場〈四葉亭〉の窓は曇り、暖炉の火はとろとろと燃えていた。

 そこには、四人の常連がいた。

 土の騎士ライネル。

 風の女盗賊シルヴィア。

 火の魔法使いマリーベル。

 そして、水の僧侶アリア。


 それぞれの椅子が、彼らの属性を映しているかのように違っていた。

 ライネルの席は暗い木の色で、足元には泥の跡がこびりついている。

 シルヴィアの席は軽く、足を組むたびに軋みが音を立てた。

 マリーベルの前には、炎色反応のように赤く光るワイン。

 アリアの前には、蒸気の立つ青い茶が一杯。


「……で、次の依頼人ってのは?」

 マリーベルが短気な指で卓を叩いた。火のようにせっかちな女だ。

「女だよ。金持ちのお嬢さんだってさ。」

 シルヴィアが軽口で返す。声の端に、いつもの皮肉が乗っている。

「嫌な匂いがするな。」

 ライネルは重い声で呟いた。

「金の話か?」

「いや、“言葉”の話だ。」


 ドアが軋み、外の雨音とともに、ひとりの若い女が入ってきた。

 黒いヴェールを被り、手には濡れた羊皮紙を握っている。

 その眼には、恐怖とも罪悪ともつかぬ色が宿っていた。


「……ここが〈四葉亭〉で間違いありませんね?」

「ええ、合ってるわよ。合言葉は?」

 シルヴィアが冗談めかして言った。

 女は震えながら口を開く。

「“寡黙な石は、嘘をつかない”。――そう伝えられました。」


 その瞬間、店の空気が一瞬止まった。

 アリアの茶の湯気が、まるで凍りついたように動かない。

 ライネルは眉をひそめた。

「その言葉、どこで聞いた?」

「父の遺言に……残されていたのです。」

 女の名はセリーヌ・アルトロワ。

 この街の領主の娘であり、そして――今日、彼女の父の葬儀があったという。


 その遺言にはこう記されていた。

 『正しい合言葉を知る者に、アルトロワ家の遺産を譲る。』


 だが、どの親族も、どの使用人も、その“合言葉”を知らなかった。

 それでも、“誰かがそれを言った”のだという。

 門が開き、遺産庫の封印が解けた。

 しかし、入った者は二度と戻らなかった。


 ――言葉が、誰かを殺した。


 ライネルたちは顔を見合わせた。

「つまり、正しいかどうか分からぬ“言葉”で、門が動いた……と。」

「そうです。」セリーヌはうなずく。

「父の亡骸も、いまや石のように冷たくなり……けれど、死んだとは思えないのです。」


 マリーベルが眉をしかめる。

「石のように、ね。……まるで呪文の副作用じゃない。」

「おそらくは。だが、俺たちは魔法屋ではない。」

 ライネルが低く答える。

「俺たちは、“言葉”の意味を探す探偵団だ。」


 シルヴィアが軽く笑い、グラスを回した。

「言葉の意味ねぇ。あたしに言わせりゃ、そんなのは風と同じ。

 掴もうとすりゃ逃げていくもんさ。」

「けれど、祈りの言葉は現実を変えることもあります。」

 アリアが静かに言った。

「ならば、悪い言葉もまた、現実を壊すのです。」


 暖炉がぱちんと鳴った。

 雨音が、まるで笑うように窓を叩いた。

 その夜の雨は、なぜだか――“不吉”に思えた。


***


 翌朝、四人はアルトロワ邸へ向かった。

 街路には昨夜の雨がまだ残り、馬の蹄が泥を弾いた。

 ライネルは無言のまま歩く。彼の心には、奇妙な違和感があった。

 ――知らぬ言葉を、誰かが言った。

 それはまるで、“言葉の形を持たぬ存在”が囁いたようだった。


 邸に着くと、老執事ダミアンが出迎えた。

「お嬢様を救っていただけるのでございますね。」

「まだ依頼を受けるとは言っていない。」

 ライネルが淡々と返す。

「しかし……あの門が、また誰かを飲み込む前に。」

 ダミアンの手は震えていた。


 彼は案内した。

 屋敷の裏手に、巨大な石の門があった。

 半円形に削られた岩壁の中心に、歪んだ紋章と、

 古い言葉で刻まれた碑文が見える。


 “言葉は鍵なり、沈黙は門なり。”


 アリアが息をのんだ。

「この文、聖典の断章です……。でも、少し違う。」

「違う?」

「本来は、“沈黙は神なり”と続くはずです。」

「削られているな。」ライネルが指で触れる。

 冷たい石の感触が、まるで“生き物”のように脈打っていた。


 シルヴィアが門に向かって囁いた。

「……寡黙な石は、嘘をつかない。」


 その瞬間、空気が揺れた。

 風が走り、草が倒れ、

 門の隙間から、白い息が漏れ出した。


 マリーベルが叫ぶ。「下がって!」

 門の裂け目が開く――そこに、人の手のような石の指が現れた。


 ライネルは剣に手をかけた。

「閉じろッ!」

 刃が光り、風が止まる。

 次の瞬間、すべてが静止した。

 門の中から伸びた石の腕は、まるで言葉のように、

 途中で――途切れた。


***


 〈四葉亭〉に戻ると、誰もが口を開けなかった。

 マリーベルが煙を吐き、言った。

「言葉を知らぬ者が、門を開けるわけがない。

 けれど、門は開いた。」

「誰かが、“知らぬままに言った”んだろう。」

 シルヴィアが笑った。

「夢の中で聞いたとか、口が勝手に動いたとか。」

「……それが本当なら」

 アリアの声は、雨の残り香のように静かだった。

「その“言葉”は、人間のものではないのかもしれません。」


 ライネルはその言葉に、妙な寒気を覚えた。

 ――人間ではない“何か”が、人間の声を使って語る。

 それが“言葉と現実の錯誤”の始まりだとしたら。


 外では、再び雨が降り始めていた。

 夜空に光る稲妻が、まるで“合言葉”のように一瞬、

 世界を照らし出しては、すぐに消えた。


 ライネルは低く呟く。

「この雨は……不吉だ。」

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