第0260話 永遠の署名
夜明けの鐘が、雨の街に静かに響いていた。
修道院の塔から放たれるその音は、まるで世界の残響のように、長く、遠くへと伸びていく。
ライネルの姿は、もうどこにもなかった。
あの夜の崩壊ののち、彼は光の中に溶け、死者でも生者でもない“境界の存在”として消え去ったのだ。
ただ一つ、彼が手にしていた青い炎だけが、石畳の上で微かに燃えていた。
その火はもう、熱を持たなかった。
けれど、どこか懐かしい温度――記憶のぬくもりを宿していた。
「……もう、泣かないわ」
アリアがそっと炎を両手で包み込んだ。
その瞳は静かで、深い湖のようだった。
「彼は“愛”を捨てなかった。それだけで、もう十分なのよ」
シルヴィアは椅子の背にもたれ、短剣を弄びながら小さく鼻を鳴らした。
「愛のために死ぬなんて、馬鹿の極みだわ。
けど……そういう馬鹿がいるから、この世界は物語になるのかもね」
マリーベルが苦笑した。
「火は、燃やすだけじゃない。暖めることもできる。
あの人は、たぶんそのことを知ってたのよ。自分が燃えることで、誰かを生かすって」
三人の言葉が、酒場〈四葉亭〉の薄明かりに溶けていく。
かつて彼らが依頼を受け、旅立ち、そして戻ってきた場所。
ここには、死者と生者の境界が緩やかに交わる、不思議な温もりがあった。
壁際の椅子に、ふと影が差した。
それは風に揺れるカーテンの影かと思われたが――
そこに座っていたのは、まぎれもなくライネルの面影だった。
「……また、酒の匂いか」
その声は、記憶の奥から滲み出るように響いた。
アリアが顔を上げたとき、すでにその姿は消えていた。
ただ、風の音が“ありがとう”と呟いた気がした。
その夜、シルヴィアは夢を見た。
夢の中でライネルは、天上と地下をつなぐ大穴の縁に立ち、
片手に炎を掲げていた。
「この火はもう、誰のものでもない。
だが、誰かの心を照らすことはできる」
そう言って微笑んだ。
翌朝、彼女たちは街を出た。
アリアは炎を小瓶に封じ、胸元に下げていた。
マリーベルは新しい杖を手に、旅路を見据えた。
シルヴィアは軽口を叩きながらも、時折空を見上げて黙り込む。
雲間から光が差す。
その光の中に、たしかに四つの影が並んでいた――
ライネルの影も、そこにあった。
彼の死は悲しみではなく、祈りになった。
彼の喪失は絶望ではなく、祝福になった。
“死と愛のあいだで、人はどの世界に帰属するのか”
その答えを彼らはもう知っている。
――人は、生と死のどちらにも属せない。
けれど、愛によってその両方を照らすことができる。
そして今日も、〈四葉亭〉の扉は開いている。
風が運ぶ噂は尽きない。
「死者の声を聞く探偵たちがいるらしい」と。
その噂の先で、青い炎がかすかに揺れている。
それは、死と愛のあいだに生きた男の――永遠の署名だった。




