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第0259話 愛だの死だの、めんどくさい奴ね

 夜の雨は、再び現世に降っていた。

 だが、その雨の冷たさは、彼にはもう感じられなかった。

 セオドアの足跡は、ぬかるみを踏みしめても音を立てない。

 まるで大地が彼の存在を忘れようとしているようだった。


 「ライネル……?」

 背後からアリアの声がした。

 彼女は青い法衣をまとい、濡れた髪を額に貼りつかせながら、懸命に呼びかける。

 「どうして応えないの……? あなた、息をしてない……」


 彼はゆっくりと振り返った。

 その瞳には、かすかな光だけが残っていた。

 「息なら――もう要らないんだ」

 アリアの目に涙がにじむ。

 「死んだの? それとも、生きることをやめたの?」


 その問いに、彼は答えられなかった。

 喉の奥で言葉が崩れ、胸の中の青い炎が静かに揺れた。

 愛を失わぬために、彼は自らの“生”を支払った。

 だが、誰にもそれを告げることはできない。

 愛の代償が死であることを、誰が祝福できるだろう。


 「――セオドア!」

 風を裂いて、シルヴィアの声が響いた。

 彼女は濡れた外套を翻し、手に短剣を握っていた。

 「黒衣の男を見たの。修道院の地下から現れて、棺をひとつ、引きずっていった」

 マリーベルも続く。

 「棺の中身は空だったわ。まるで“死”が逃げ出したみたいにね」


 その言葉に、ライネル――いや、もはや半ば死者となった彼は、静かに目を伏せた。

 「それは……俺だ」

 誰もすぐには理解できなかった。

 火のようなマリーベルが怒りを露わにする。

 「どういう意味よ! 自分を死者だって言うつもり?」

 「俺は、悪魔との問答を終えた。愛を守る代わりに、生を手放した。

  だから、いまの俺は“生者”でも“死者”でもない――その中間にいる」


 沈黙。

 雨の音だけが響く。

 四人は言葉を失い、それぞれの心が波立つのを感じていた。


 ライネルの存在が、彼女たちの現実を歪ませていく。

 火のマリーベルは怒りを、

 風のシルヴィアは軽蔑を、

 水のアリアは涙を、

 そして土のライネル自身は、静かな絶望を抱え始めていた。


 ――そのとき。


 地面が鳴った。

 雷のような音が地下から響き、修道院の古い石床がひび割れる。

 ひとつ、またひとつと棺の蓋が開き、無数の影が立ち上がった。

 かつて“死者の署名”を残した者たちだ。

 その声が、彼に向かって囁く。


 「おまえもこちらへ来い」

 「愛を守ったなら、もう戻る場所はない」

 「こっちの世界で、永遠に彼女を抱けるぞ」


 ライネルの足が震えた。

 愛の名を呼ばれるたびに、魂が引き寄せられる。

 だが、そのたびにアリアの叫びが現世に引き戻した。


 「だめ! 行かないで!」

 その声には、寂しがり屋の祈りがこもっていた。

 マリーベルが炎を放つ。

 「くそっ、こんなもの、焼き尽くしてやる!」

 だが、死者たちは炎を恐れない。

 逆に、炎の中から次の声が聞こえた。


 ――「愛を捨てろ、そうすれば生き延びられる」


 それは黒衣の男の声だった。

 ライネルは空を見上げた。

 灰色の雲の裂け目から、一筋の光が差し込む。

 その中に、リュシアの幻が見えた。

 「あなたは、生きて――」


 その一言で、彼の胸の炎が爆ぜた。

 愛を守ることと、生きることは、両立しない。

 だが、彼女の願いが“生”を呼び戻すなら――


 「俺は……もう一度、生を選ぶ!」


 光が彼の体を貫き、死者たちが悲鳴を上げる。

 雨が止み、空が裂けた。

 彼の中の炎は赤から白に変わり、境界が崩れ落ちていく。

 死者たちは霧となって消え、黒衣の男の姿も霞の中へ溶けていった。


 アリアが駆け寄り、彼の胸に手を当てる。

 「……鼓動が、戻ってる」

 シルヴィアが息を吐き、マリーベルは腕を組んだ。

 「まったく、愛だの死だの、めんどくさい奴ね」

 ライネルは小さく笑った。

 「そうだな。だが、それが人間ってやつだ」


 その笑みは、雨上がりの空よりも淡く、美しかった。

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