第0258話 “愛を失わぬ者”
目を開けると、そこはもはや「雨の中」ではなかった。
水音も、風のざわめきも消え、世界は沈黙に包まれていた。
ただ、遠くの闇の底から、心臓のような鼓動が響いてくる。
それは彼自身のものではない。
むしろ、世界そのものが呼吸しているような音だった。
黒衣の男は、いつの間にか彼の前に立っていた。
その瞳は深淵のように暗く、見つめているだけで、心が吸い込まれていく。
「ここは?」
彼が問うと、男は静かに笑った。
「死者が問う場所だ。――そして、生者が答えを持たずに迷う場所でもある。」
彼は周囲を見渡した。
そこには、光も影もなく、ただ淡い灰色の空間が広がっている。
地平も天も区別がない。
まるで“始まり”と“終わり”が重なり合ったような、無の世界だった。
「おまえは、愛のために死を選んだのか?」
黒衣の男の声が、雷のように響いた。
「それとも、死を恐れたがゆえに、愛にすがったのか?」
言葉が胸を突き刺す。
彼は答えようとするが、喉が動かない。
雨宿りの夜、彼女の唇を奪ったときのあの震えが、再び体を貫く。
あれは欲望だったのか、哀しみだったのか。
それとも――死者に触れるような、禁忌の愛だったのか。
「……わからない」
ようやく吐き出した声は、息のように頼りなかった。
男はその言葉に満足したように微笑み、ゆっくりと手を掲げた。
掌の中に、小さな炎が灯る。
それは青白く、まるで氷が燃えているかのようだった。
「この火は、記憶の火だ。
愛する者の魂をここに留めることができる。
だが、それを守るためには、代償を支払わねばならぬ。」
「代償?」
「そう。おまえの“現世の記憶”だ。
生きていた日々、名前、呼吸の感触――すべてをこの炎にくべよ。
そうすれば、おまえは永遠に愛を失わずにすむ。」
男の声は甘く、静かで、毒のように心地よい。
彼は炎を見つめる。
その青の奥に、彼女の顔が浮かんでいた。
泣いていた。
それでも微笑んでいた。
――「あなたが私を忘れても、私はあなたを覚えているわ」と。
その瞬間、彼の中に何かが裂けた。
忘却によって愛を守るという逆説。
それはあまりにも冷たく、美しい罠のように思えた。
「それが“悪魔の契約”か?」
彼の問いに、黒衣の男は小さく首をかしげた。
「違う。おまえの望みそのものが契約だ。
私はそれを叶えるだけの存在にすぎない。」
沈黙が訪れる。
炎の青が、ゆらゆらと彼の瞳に映る。
やがて彼は、ひとつの決断をする。
「……炎を渡せ。」
男は何も言わず、火を差し出す。
彼がそれを手に取った瞬間、焼けるような痛みが掌を走った。
だが、その痛みの中に、彼は確かに“彼女の体温”を感じた。
懐かしさと哀しみが混ざり合い、胸の奥が軋む。
「これで、おまえは“愛を失わぬ者”となった」
黒衣の男の声が遠のく。
視界が白く滲み、世界が再び崩れ始める。
「だが忘れるな――
永遠に愛を失わぬということは、永遠に生を得られぬということだ。」
最後の言葉が、耳の奥で凍りついた。
炎が静かに彼の心臓の中へ沈みこむ。
それとともに、彼の記憶の一部――名前も、雨宿りの夜も――ゆっくりと薄れていった。
彼は愛を得て、同時に生を失いはじめていた。




