第0257話 雨の音は、鼓動の音に変わっていった
雨はまだ降り続いていた。
だが、それはもはや「この世の雨」ではなかった。
地上を濡らす音は、遠く、隔てられた水面のように聞こえ、主人公――彼――はその音を、天と地の隙間に立ちながら聞いていた。
足もとにあったはずの土は、灰色の水鏡に変わっている。
そこに映るのは、さっきまで寄り添っていた女――あの「雨宿りの夜」の面影。
彼女は確かに生きていた。指の温もりが、呼吸のたびに彼の胸を押し返していた。
けれど今、その姿はただの映像のように、波紋の内で揺れている。
「……君は、こちら側にいるのか?」
彼がそう問うと、波がふっと途切れた。
返ってきたのは、人の声ではなかった。
むしろ、彼自身の心の奥で誰かが囁いたような――雨音に似た響きだった。
――生と死のあいだに、あなたは立っている。
――だから、どちらの声も聞こえる。
声の正体を掴もうとして、彼は視線を上げた。
眼前には“穴”がある。
雲の裂け目のようでいて、底知れぬ深淵のようでもあるその暗い孔は、まるで世界の構造そのものがほつれたかのように、静かに開いていた。
「これが……死者の通り道、なのか?」
誰にともなく呟いたとき、背後から足音がした。
振り向くと、黒衣の男が立っていた。
顔は見えない。だが、その存在は、ずっと以前から彼の影の中にいたような既視感を伴っている。
「問うがいい」
その声は、重い鐘の音のようだった。
「生きるとは何か。死ぬとはどこへ行くことか。――そして、愛とは、なぜ痛むのか。」
彼は息を呑んだ。
男の問いが、まるで心臓の内側から発せられたかのように響く。
問われたのではない。
彼自身が、ずっと自分に問おうとして果たせなかった言葉を、ようやく聞かされたのだ。
「……愛は、死に近いから、か?」
「ちがう。愛は死を超えるがゆえに、痛むのだ。」
男は歩み寄る。
その足音が雨音と溶け合い、彼の周囲の空気が淡く震えた。
その瞬間、過去の光景が一斉に蘇る――
あの夜の情交、濡れた髪、指のぬくもり、ふと彼女が目を逸らした一瞬の不安。
そして、最後に聞いた「行かないで」という声。
「君は……彼女を、殺したのか?」
黒衣の男が問う。
「それとも、彼女を生かしたまま、こちらへ連れてきたのか?」
答えは出ない。
だがその沈黙こそが、真実を告げていた。
彼は生者のまま、死者の領域に踏み込んだ。
だからこそ、雨は止まらない。
この世界が終わらない。
そして――彼女の影が、まだここにいる。
「戻ることはできるのか?」
「問答の果てに、選ぶことになるだろう」
男はそう言うと、闇の孔の向こうを指差した。
「だが忘れるな。愛を持って入れば、愛を失って出る。
愛を棄てて入れば、愛そのものになる。」
雨が、さらに強くなった。
空と地が混ざりあい、境界が消えていく。
彼は深呼吸をひとつし、黒衣の男の方へ一歩、踏み出した。
足元の鏡が、ゆっくりと割れる。
水面に映っていた女の姿が、溶けていく。
それでも彼の耳には、確かに聞こえた。
――「待っているわ」と。
その声を胸に、彼は“穴”の奥へと歩み入った。
やがて雨の音は、鼓動の音に変わっていった。
そしてその鼓動が、再び彼を現世へ呼び戻すのか、それとも完全な死へ誘うのか――
それは、まだ誰にもわからなかった。




