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第0256話 鐘楼の鐘が鳴る

 その夜の雨は、まるで誰かが空の底を破ってしまったようだった。

 街を包む霧は重く、灯台の火もぼやけて見えた。

 鐘楼の鐘が鳴る。死者の時間を告げる十三の音。

 生きた者が歩くには、少しばかり湿りすぎている夜だった。


 その中を、一人の男が歩いていた。

 ――セオドア。かつて戦場で多くの命を埋めた、元傭兵にしていまは“送葬士”。

 彼の背中には小さな棺。中には、まだ温かい遺体が眠っている。

 少女の名はマルティナ。十二歳。疫病で逝った。

 彼女の家族は貧しく、埋葬の金もなかった。

 だからセオドアが引き受けた。

 死者を「向こう」へ送る役目を。


 ――死者は穴を通って、天上界あるいは地下界へ行く。

 それがこの街で古くから伝わる信仰だった。

 けれどセオドアは、その穴を“見た”ことがある。

 それは天への門でも地獄の裂け目でもなかった。

 ――もっと、静かで、寂しい。

 まるで愛そのものが残した影のようだった。


 彼は雨の中、古びた酒場《四葉亭》の扉を押し開けた。

 中では火が燃えていた。木の匂い、アルコールの甘さ、そして湿った羊毛の匂い。

 そこは生者と死者の境界を見た者たちが集う場所だった。


 「おや、墓掘りが夜更けに散歩かい?」

 カウンターに腰かけた女が、軽口を飛ばした。

 風のように軽やかな女盗賊、シルヴィアだ。

 金の耳飾りが灯りを受けて揺れる。

 その隣には、鎧を脱いで酒をあおる騎士、ライネル。

 眉間に深い皺を刻みながら、杯の底を見つめている。

 そして暖炉の前では、炎を操る女魔法使いマリーベルが、赤い髪を燃やすように揺らし、

 その足元には、青い法衣をまとった僧侶アリアが祈りを捧げていた。


 彼らは《四葉亭》の常連。

 ――いや、物語を回す「狂言回し」たちでもある。

 死と生の噂が持ち込まれれば、必ず彼らの耳を通る。

 そしてライネルの筆が、それを“奇譚”として書き残すのだった。


 「新しい話の種でも持ってきたのか?」

 ライネルが目を細める。

 セオドアは無言のまま、棺をテーブルに置いた。

 静寂が降りる。木の卓上に雨滴が落ちて、丸い痕をつくった。


 「……この子を、送らなければならない」

 セオドアの声は低かった。

 「だが、今夜は“穴”が開かない」

 「穴?」アリアが顔を上げた。

 「死者の通り道さ。天上界か地下界へ行くための。いつもなら、夜半に光る“ふち”が見えるんだ。だが今夜は、何も見えない」

 「見える、って?」シルヴィアが眉を上げる。「まさか、本当に“穴”があると?」

 「ある。俺の目には、確かに見える」

 シルヴィアが笑う。「死人の目でももらったのかい?」

 その冗談に、誰も笑わなかった。

 火のはぜる音だけが、静かに割り込んだ。


 しばらくして、ライネルが口を開く。

 「……お前さん、前にも似た話をしたな。

 “穴の向こうには、愛した女がいた”って」

 セオドアの肩が微かに震えた。

 「そうだ。リュシア――雨の夜に、俺の腕の中で死んだ女だ。

 彼女を送ったとき、俺は“穴”を覗いた。

 天も地もない。あったのは、彼女の姿だった」

 マリーベルが眉をひそめる。「幻覚じゃないの?」

 「もし幻なら、俺はいまも幻の中で生きているのだろう。

 だが俺の手は、いまだに彼女の冷たさを覚えている」


 彼は自嘲するように笑った。

 その笑いは、死者に向けた祈りにも似ていた。


 シルヴィアがグラスを回しながら呟く。

 「……つまり、“穴”ってのは、死者が行く場所じゃなくて、残された者が覗く“愛の残骸”みたいなもんかもね」

 「うまいこと言うじゃないか」とライネル。

 「でもな、愛ってやつは、残骸になっても人を縛る。

 お前さんみたいにな」

 セオドアはそれを否定しなかった。

 否定する資格もなかった。


 火が落ち、ランプの炎が青く揺れる。

 そのとき、扉が開いた。

 冷たい風とともに、フードをかぶった老女が入ってくる。

 杖を突きながら、震える声で言った。


 「……ここに、“死を扱う者たち”がいると聞いたのだけれど」


 マリーベルが目で合図し、シルヴィアが笑う。

 「ようこそ、《四葉亭》へ。

 死人のことなら、うちの客はだいたい詳しいですよ」


 老女は頷き、濡れたローブを絞る。

 「わたしの息子が……死にました。けれど、死んだ後に“署名”をしたんです。保険金の書類に。

 あの子の筆跡で、日付は――昨日でした」


 店の空気が止まる。

 誰もが互いを見た。

 やがて、セオドアが口を開く。

 「……息子さんの遺体は、どこに?」

 「修道院の地下墓地に。けれど、夜ごと棺の蓋がずれているのです。

 “あの子が帰ってきた”と、皆が怯えて……」


 マリーベルの目が光る。

 「死者が戻った、って話ね。いいじゃない、退屈しのぎには」

 アリアはその言葉に眉をしかめた。

 「マリーベル、軽々しく言わないで。死は……神聖なものよ」

 「神聖? ふん、あんたは死を恐れてるだけだろ」

 火と水が、視線で火花を散らす。

 ライネルは苦笑した。

 「……また始まった」


 その間に、セオドアは老女に近づいた。

 「あなたの息子の名を、教えてください」

 「ローデリヒです」

 「――!」

 セオドアは息を呑んだ。

 彼の記憶に刻まれた名だった。

 リュシアの護衛をしていた男。

 そして、彼女が死んだ夜、

 彼女を襲った刺客の名でもある。


 雨が激しく窓を叩く。

 外では、雷鳴が空を裂いた。


 ライネルがゆっくりと立ち上がる。

 「さて……“死者の署名”か。

 悪いが、これは我々の出番だな」

 シルヴィアがナイフを弄びながら笑う。

 「夜の墓地なんて、私の散歩コースだわ」

 マリーベルが炎を指先に灯す。

 「魂の痕跡を見つけられるかもしれない」

 アリアが小さく十字を切る。

 「神の赦しがありますように……」


 セオドアは、静かに棺を持ち上げた。

 「この子を送り届けたら、俺も行く。

 ――死者が帰ってくるというのなら、確かめねばならない」


 外へ出ると、雨はやまぬまま夜を洗っていた。

 遠くに墓地の塔が見える。

 灯りは消え、闇だけが地を覆っている。

 歩くたび、泥が靴底に絡みつく。

 風が吹き抜けるたび、アリアのローブが涙のように揺れた。


 「セオドア」

 ふと、背後で声がした。

 振り向くと、誰もいない。

 ただ、雨粒が頬を打つ音だけがあった。

 ――けれど、確かに聞こえた。

 リュシアの声。

 “あなたは、まだ私を送っていないのね。”


 その瞬間、彼の足もとに黒い影が滲んだ。

 まるで地面が呼吸するように、

 ゆっくりと開いていく。


 闇の穴が。


 その向こうで、白い手が彼を招いていた。


 《四葉亭》の窓から、シルヴィアがその様子を見ていた。

 「……あの人、本当に見えたのかしらね」

 ライネルは黙って煙草に火をつける。

 「見えたとも。

 愛ってのは、たいてい“穴”を掘るもんだ」

 灰が落ちる音が、雨音に溶けた。


 こうして、死者の穴と愛の影をめぐる奇譚は始まる。

 その夜、誰もがまだ知らなかった。

 ――この“依頼”が、やがて生と死、そして愛そのものの境界を越えることになるなどと。

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