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第0255話 幻でも構わない

 朝霧が、街の屋根の上をやさしく撫でていた。

 瓦の上に積もる露が、まるで赦しの涙のようにきらめいていた。


 ライネルは、石畳の上をゆっくりと歩いていた。手には何も持たない。剣も、証拠も、正義の言葉さえ。

 ただ、掌の中にあるのは、ほんのわずかな温もり――かつて敵として、あるいは友として向き合った者たちの“記憶”だった。


 「……もう、誰も責めない」

 小さく呟いた声は、霧の中に吸い込まれていった。


 あの夜。

 息を吐きかけて命を奪う女――シルヴィアが、自らの息を止めてまで守ったもの。

 逆・遺産分配の儀式によって明らかになった、真実の歪み。

 すべては、誤認の連鎖が生んだ悲劇だった。


 ライネルはようやくそれを“赦せる”ところまで来ていた。

 赦すとは、忘れることではない。

 痛みを、痛みのまま抱きしめることだ。


 マリーベルの言葉が、心の奥に残っている。

 ――「嫌な感情ほど、人を生かすの。忘れたいって思うのは、それがまだ燃えてる証拠。」

 あの皮肉めいた笑みを思い出すと、ライネルの胸は少し温かくなった。


 街の広場では、子どもたちが輪になって遊んでいた。

 その中心には、壊れた噴水がある。水はもう流れていないが、石の裂け目から小さな草が芽吹いている。

 それを見たとき、ライネルはようやく微笑んだ。


 「壊れても、生えるんだな……」

 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 けれど、どこかで聞いている者がいる気がした。

 アリア――

 あの霧の向こうで、まだ何かを書き続けているのかもしれない。彼女の詩が、誰かの涙を少しでも軽くしてくれることを願いながら。


 ライネルは、石の階段を登った。丘の上には小さな礼拝堂がある。

 扉を開けると、柔らかな光が差し込んだ。

 そこには、見慣れた木の椅子と、古びた祭壇。

 そして、誰もいない空間に、風だけが通り抜ける。


 彼は祈らなかった。ただ、静かに座り、目を閉じた。

 すると、心の奥底から、かすかな声が聞こえた。


 ――あなたは、まだ終わっていない。

 ――でも、それでいいの。


 涙が一粒、頬を伝った。

 それは悲しみではなかった。

 苦しみを知り、怒りを越え、赦しを受け入れた先にある、穏やかな痛み。


 彼はそのまま微笑みながら、胸の内で言葉を紡ぐ。


 > 嫌な感情よ、ありがとう。

 >

 > おまえがいたから、僕は人でいられた。

 >

 > おまえがいたから、僕は誰かを想えた。

 >

 > だからもう、隠れなくていい。

 >

 > この心の中で、静かに、生きていてくれ。


 教会の鐘が鳴る。

 霧が晴れて、遠くの山が姿を現した。

 その稜線の向こうで、朝日が昇る。


 ライネルはゆっくりと立ち上がった。

 彼の顔には、もう“戦う者”の影はない。

 あるのは、“受け入れた者”の穏やかな眼差し。


 外へ出ると、風が頬を撫でた。

 その風の中に、誰かの笑い声が混じっているような気がした。

 それが幻でも構わない。

 幻こそ、人の希望を照らす光だから。


 ライネルは歩き出した。

 どこへ行くのかもわからぬまま、ただ一歩ずつ。


 やがて、霧の向こうで誰かが言った。


 ――おかえりなさい。


 その声を最後に、

 朝日は完全に街を照らした。

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