第0253話 正義の顔
夜がまだ明けきらぬ頃、酒場《四葉亭》の扉を叩く音が響いた。
重く湿った風が入り込み、消えかけの蝋燭の炎を揺らす。
扉を開けたライネルの前に立っていたのは、王国検察局の使者だった。
「探偵団《四葉亭》に通達する。昨日、貴殿らが接触した囚人は――今朝方、死亡した」
その言葉に、沈黙が落ちた。
マリーベルの手が、握っていたマグを割った。
熱いスープが飛び散る。
「嘘よ……! 彼はまだ、生きようとしてたじゃない!」
「遺体は冷たくなっておる。牢の中に、息の跡はなかった」
使者は淡々とそう言い残すと、足音もなく去っていった。
残されたのは、重い空気と、壊れた信念だった。
「……誰かが、彼を殺したのね」
シルヴィアが唇を噛む。
「正義のために動くと、いつもこうだ。救おうとした命が、先に奪われる」
アリアが肩を落とすと、ライネルは椅子を軋ませて立ち上がった。
「いや……まだ終わっていない。あの男の死を“証明”した者を、まず見つけねばならん。」
*
調査は、王都の地下水路へと続いた。
冷たく濁った水の中を、四人は松明を掲げて進む。
壁の石には、奇妙な印――“逆刻の紋章”が刻まれていた。
マリーベルがその一つを指先でなぞる。
「やっぱり……この印は、あの懐中時計の模様と同じ」
「つまり、“時間の逆流”を象徴する印か。」
「そう。犯人は“時間そのもの”をずらして、アリバイを作ったのよ」
「逆・目撃者の錯覚」――それが、街全体を覆う病のように広がっていた。
誰かが“見た”と信じた瞬間、真実はその形を変えてしまう。
人々の記憶が、時間の歯車を狂わせていく。
アリアが小声で祈りを唱える。
だが、その声に応えるように、水面から“吐息”が立ち上った。
「下がれ!」
ライネルが盾を構える。
次の瞬間、何かが水中から這い出てきた。
白い霧のような怪物――
人の姿をしているのに、顔がない。
ただ息を吐き続けるだけの存在。
マリーベルが炎を放つ。
「《火精・イグニス!》」
だが炎は霧に吸われ、光だけが残る。
シルヴィアが短剣を抜き、水飛沫を蹴って跳ぶ。
「風裂!」
刃は霧を裂くが、形を保つことはできない。
「アリア、祈れ!」
「駄目……この“息”、魂を奪ってる……!」
怪物は、囚人の“逆の呼吸”から生まれた幻影だった。
彼が死ぬときに吐いた最期の息――それが形を持って、現世を彷徨っている。
ライネルが盾を構え、霧の中へ踏み込んだ。
「正義の名のもとに、汝を断つ!」
彼の声が響く。
しかし、その瞬間――霧の怪物がライネルの耳元で囁いた。
「正義は、いつ怪物とすり替わった?」
ライネルの動きが止まる。
錯覚。逆向きの真実。
それを正そうとした彼自身が、いま“裁きの怪物”に変わろうとしている。
シルヴィアが叫ぶ。
「ライネル! 戻って!」
「……見えるんだ。俺の中の怪物が。正義という名の、鎖だ。」
彼の盾が砕け、霧の中に沈んでいく。
マリーベルの炎が再び灯る。
アリアの涙が光る。
「お願い、戻って……!」
その祈りの声が、水の底に届いたとき――
霧は静かにほどけ、夜明けの光が水路を照らした。
*
《四葉亭》に戻ると、店主が封書を渡した。
「これが、亡き囚人から預かっていた“最後の手紙”だ」
ライネルはそれを開く。
> 「私の息は、もう止まる。だが真実はまだ生きている。
> もしあなたたちがそれを探すなら、どうか“時間の逆流”に飲まれぬように。」
手紙の裏には、雨の夜に落ちた小さな“怪物の影”が描かれていた。
その形は、まるで正義の顔をしていた。




