第0252話 “救済”とは誰のためにあるのか
酒場《四葉亭》の奥、蝋燭の火がゆらめく。
テーブルの上には、冷めかけたスープと、誰も手をつけぬワイン。
雨上がりの石畳の匂いが、窓の隙間から忍び込んでいた。
その夜、四人の探偵たちは、再び顔を揃えていた。
――土の騎士ライネル。沈黙の中に怒りを孕む男。
――風の盗賊シルヴィア。軽口を叩きながら、心の奥で何かを計っている女。
――火の魔法使いマリーベル。言葉よりも感情が先に燃える女。
――水の僧侶アリア。祈りの裏に、寂しさという名の罪を隠している女。
彼らの前に、依頼者が立っていた。
痩せこけた青年。衣の袖を握りしめる手は震え、唇は血が滲むほど噛まれている。
彼の名はエドモン。
そして彼の口から語られたのは――**「殺人者を救ってほしい」**という依頼だった。
酒場が静まる。
ライネルが眉をひそめた。
「殺人者を……救う、だと?」
「ええ。あの人は、人を殺していません。なのに、皆が彼を犯人だと決めつけているんです」
「証拠があるのか?」
「あります。ですが……それは“あってはいけない証拠”なんです」
青年の声は震えていた。
そして彼が差し出したのは、血の跡がついた懐中時計。
その蓋には、女の微笑が彫られている。
マリーベルがその彫刻を覗き込み、眉を寄せた。
「これは……“逆向き”の刻印?」
「ええ」アリアが息を呑む。「時が、逆に刻まれている……」
――逆。
それは、この街を蝕む“錯覚”の象徴でもあった。
誰もが、見たままを真実と思い込み、
見えぬものを“虚偽”と決めつけてしまう。
だが、その反転の中にこそ、真の“アリバイ”が隠れているのかもしれない。
「つまり」シルヴィアが口を開く。「殺人者を救うことで、別の誰かの罪を暴くわけね」
「救う、というよりも――裁く者たちの“錯覚”を正すのだ。」
ライネルの声は低く、重い。
その瞳には、暗い決意の影があった。
それは正義という名の灯火でありながら、同時に怪物の炎でもあった。
*
彼らはエドモンの案内で、処刑前夜の牢へ向かった。
街の灯が消え、霧が満ちる。
地下の石階段を下るたび、湿気が濃くなり、冷気が肌を刺した。
牢の中で、囚われの男が膝を抱えていた。
“息を吐きかけて生命を奪う”という異能を持つ、黒衣の呪詛師だと噂されていた男。
だが、その目には憎しみも怨念もない。
あるのはただ、諦めに似た優しさだった。
「お前たちは……誰だ?」
「真実を確かめに来た。お前の吐いた息が、本当に人を殺したのかをな」ライネルが言う。
男はかすかに笑った。
「もしそうだとしても、もう構わん。あの女が死んだ時、俺の中の呼吸も止まったのだから」
その瞬間、アリアが胸を押さえた。
見えぬ何か――冷たい波が心臓を撫でていく。
祈りの言葉が唇からこぼれそうになるが、彼女は言葉を飲み込んだ。
「……それでも、あなたは嘘をついている」
「なぜそう思う?」
「あなたの“息”は、まだ温かい。生きる意思を捨てていない人の、それです」
牢の中に、沈黙が降りた。
そして、マリーベルがぽつりと呟いた。
「息で命を奪う……それは“逆”に考えれば、命を吹き込むこともできるってことじゃない?」
その言葉に、ライネルがはっと目を上げた。
錯覚――アリバイ――逆向きの刻印。
すべてはひとつの線で繋がっていく。
「まさか……殺された女は、まだ……」
マリーベルが頷いた。
「そう。誰かが“死んだ”と見せかけて、別の誰かを“生かした”のよ。」
真実の輪郭が、静かに形を取り始めていた。
*
夜明け前、四人は再び《四葉亭》に戻る。
外は小雨。屋根の上を叩く雨音が、まるで鼓動のように聞こえる。
シルヴィアがワインを煽り、呟いた。
「嫌な気分ね。救いの依頼ってのは、どうしていつも気分が悪いんだろう。」
「正義のために動くとき、人は必ず誰かを傷つける。」ライネルが答える。
「でも、それが本当の正義かどうかは……誰にもわからない。」
アリアの声は、雨のように静かだった。
その夜、四人の胸にはそれぞれ異なる疑問が宿った。
“正義”とは何か。
“救済”とは誰のためにあるのか。
そして――
誤った認識が真実をねじ曲げる時、
それを正そうとする行為こそが、怪物を生み出すのではないかと。
蝋燭が消える。
雨が強くなる。
次の依頼の鐘が、遠くで鳴り始めていた。




