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第0251話 “誰かが笑う影”

 夜が明けると、街はまるで昨日の雨を忘れたかのように静まり返っていた。

 だが、屋根瓦の隙間や石畳の影には、まだ“真実の湿り気”が残っていた。


 《四葉亭》の一行は、ルカを伴って侯爵邸へ向かっていた。

 馬車は泥濘をはね、鈍い音を立てる。

 ルカは何度も拳を握りしめ、そのたびに爪が手のひらの肉を抉った。


 「……夢の中で、あの娘の声がするんです。」

 彼の声は、揺れる馬車の中で、かすかに震えた。

 「“もう一度、見てほしい”と。」


 ライネルは腕を組んだまま、外を見つめる。

 「見ることが、赦しになるとは限らん。だが、目を背ければ――また怪物が生まれる。」


 マリーベルが鼻を鳴らす。

 「アンタのその説教臭い言い方、いっそ神父になったら?」

 アリアが柔らかく笑った。

 「神父には怒りが強すぎる。ね、ライネル。」


 シルヴィアは天井にぶら下がるランプを指で弾き、

 「まあまあ。どうせ今日も死人の影を覗く仕事でしょ? 軽く行こうぜ。」

 ――軽やかな言葉の奥に、彼女なりの警戒があった。


 侯爵邸は、灰色の石でできた巨大な建物だった。

 門の鉄格子には錆が走り、屋根の上にはまだ雨水が溜まっている。

 かつての栄華は、沈黙の中に封じられていた。


 バルク侯爵は、深い喪服のような服を着て出迎えた。

 「ようこそ、四葉亭の探偵殿。

 娘の死から三年……真実を暴いてほしい。」


 彼の声には威厳と哀悼が混じっていた。だが、ライネルはわずかに眉をひそめた。

 その声には“喪失”ではなく、“再審”の熱があった。


 「現場を見せてもらえるか?」

 「もちろんだ。」


 案内されたのは、屋敷の二階、クラリスの私室だった。

 窓辺に大きな硝子が嵌め込まれ、雨跡がまだ斑に残っている。

 床には当時のまま、割れた陶器と焦げた蝋燭台。

 そして、扉の近くには、――足跡。


 マリーベルがかがみ込み、指先で触れる。

 「妙ね。これ、外に逃げたはずの足跡が“中へ向かってる”。」


 ルカは目を見開く。

 「そ、そんなはずは……! 私が見たのは、外に走り去る影だった!」


 シルヴィアが、靴跡の輪郭を丁寧に調べる。

 「雨が降ってたのは事件の夜。外に出れば、すぐ泥が付くはず。

 でもこれは……乾いてる。つまり、外から入ってきた足跡だ。」


 沈黙が落ちる。

 アリアがそっと祈りの印を結ぶ。

 「“見えたもの”ではなく、“見ようとしたもの”を見てしまったのね……。」


 ライネルが低く言った。

 「――誤認だ。お前の証言は、屋敷にいた“真犯人”のアリバイを作っていた。」


 ルカの息が荒くなり、膝をついた。

 「じゃあ……私は……あの男を殺した上に、犯人を逃がしたのか……!」


 マリーベルは肩をすくめ、立ち上がる。

 「人の目なんてそんなもんよ。火だって、見る角度で違う色に燃える。」


 侯爵は、苦渋の面持ちで黙っていたが、

 やがて一歩前に出て、ライネルに問う。

 「では、娘を殺した真犯人は誰だ。衛兵が見た“影”は何者だったのだ?」


 ライネルは答えず、ただ窓辺に立つ。

 雨の跡が残る硝子に、歪んだ光が映っていた。

 「この雨は、三年前と同じ方向から降っている。……まるで記憶が再演されているようだ。」


 その夜、四葉亭の一行は屋敷に泊まることになった。

 再調査のためだ。

 静まり返った邸内には、どこか“人ならぬ息遣い”があった。


 廊下の隅、古い鎧が立っている。

 ランプの光がその兜の隙間を照らすたび、

 まるで誰かが息をしているように見えた。


 シルヴィアが囁く。

 「ねえ、あの鎧……少し、動いてない?」

 マリーベルが舌打ちする。

 「バカ言わないで。そんなの見間違い――」


 ――そのときだった。


 廊下の端に、白い霧が流れ込んできた。

 冷たい吐息が、ランプの火を奪う。

 闇の中で、確かに“息を吐く音”がした。


 ルカは声を上げる。

 「あれだ……あの夜も、同じ音を聞いたんだ……!」


 霧の中に、輪郭のない影が揺らめく。

 人でも獣でもない、“呼吸だけの存在”。

 その吐息に触れた鼠が、一瞬で動かなくなる。


 アリアが震える声で祈りを唱えた。

 「息を吹く者よ、天に帰れ……!」

 だが、霧はまるで笑うように揺れた。


 「……正義は、息で人を殺す。」

 マリーベルの呟きが、夜の中で燃えるように響いた。


 翌朝、侯爵邸の使用人の一人が死んでいた。

 部屋には争った形跡もなく、ただ“吐息を受けた”ように頬が白く凍りついていた。


 ライネルは遺体の傍らに膝をつき、

 「息を吐きかけて生命を奪う――伝承の“息吹きの怪物”。

 だがこいつは、伝説じゃなく、人の心が作った現実だ。」


 ルカは震えながら問いかける。

 「まさか、あれが……クラリスを殺した犯人の正体なのか……?」


 ライネルは答えず、ただ静かに立ち上がった。

 「真実はまだ半分しか見えていない。

 ――アリバイは残響する。お前の目が、それを蘇らせている。」


 彼の声は、雨上がりの空のように冷たかった。

 そして、その冷たさが、ルカの胸の奥で“嫌な感情”を再び揺らした。


 罪悪感、恐怖、そして……疑問。

 ――「正義」とは、本当に生きている者のためにあるのか。


 ルカの視線の先、硝子窓にはまだ曇りが残っていた。

 そこに映るのは、彼自身の顔――ではなく、

 “誰かが笑う影”だった。

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