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第0248話 害をほどくためにここにいる

夜が、深く沈んでいた。

「四葉亭」の灯りはすでに落ち、炉の灰の下にまだほの赤く火が残っている。

ライネルは、その火を金の棒で突きながら、ゆっくりと語りはじめた。


「――石は、動かなかった。最初からずっとな」


沈黙。

その声に応じたのは、アリアの静かな息だけだった。


「けれど、見た者はみんな“動いた”と思い込んでいた。

誰もが“動かぬものが動く”という恐れを、どこかで信じたんだ」


「つまり、石は……動かされたのね?」

シルヴィアが足を組み直し、唇の端を上げた。

彼女の指先が卓上のグラスを軽くなぞる。

透明な震えが、薄暗い空気にひと筋の光を走らせる。


「動かしたのは“目”だよ」

マリーベルが炎を見つめたまま、低く言った。

「動くと思った瞬間、世界はそう見える。

祈りも恐怖も、その“見る力”に従う……そうでしょう?」


ライネルは頷く。

「村人たちは、“石を祀る”という名目で、あの丘に恐怖を刻みつけた。

“動かぬもの”に意味を与え続けるうちに――

それが、彼らの中で“意志を持つ存在”に変わったんだ」


アリアは、静かに手を組む。

「……つまり、“害意”とは人の側にあったのですね」


「そうだ」

ライネルの瞳に、土のような重みが宿る。

「石は何もしていない。

けれど、動くと思い、祈り、恐れた人間が、

“害”を作った。――それがこの事件の根だ」


しばし、誰も言葉を発さなかった。

ただ、風が閉ざされた窓を撫でる音がする。


やがて、シルヴィアがふっと笑った。

「皮肉ね。

動かぬものを信じる心が、動かぬはずのものを動かした。

信仰ってやつは、いつも少しだけ残酷だわ」


マリーベルが眉をひそめる。

「でも、じゃああの石像を壊したのは誰?

“害意”が人の中にあったとしても、誰かが手を下したはずよ」


ライネルは炉の灰をもう一度掻き出した。

火がぱちりと鳴り、赤い粒がひとつ跳ねた。


「壊したのは、祈った者自身だ」

その声は、静かに灰の底を掘り返すようだった。

「村の巫女――“動かぬ石”の番人だった女だ。

彼女は、誰よりもあの石を恐れていた。

動かぬことこそが神聖だったのに、

“動いた”と思った瞬間、それは『穢れ』に変わった。

彼女は自分の信仰を守るために、石を砕いた。

――『動く神などありえない』と叫びながらな」


アリアが息を呑む。

シルヴィアは目を伏せ、マリーベルは拳を固く握った。


「人は、動かぬものを信じたい。

でも、その静けさの中に、自分の罪や恐れが映ると……

動いたと思い込む。

“嫌な感情”から目を背けるためにな」


ライネルはそう言って、灰をそっと押し固めた。

まるで墓標を作るかのように。


「俺たちが証明したのは、“動かぬものは動かない”という事実じゃない。

“動くと思い込む心”が、世界をどう歪めるか――

その恐ろしさだ」


火は静かに沈み、部屋の空気が夜の色に溶けていく。


そのとき、外からかすかな風が吹き抜けた。

カーテンが揺れ、窓辺の花瓶の中で水面が震える。

その一瞬、アリアは目を閉じた。


――水面の揺らぎが、まるで石が息をしているように見えたからだ。


しかし、それはもう恐ろしい幻ではなかった。

むしろ、静かな命の証のように思えた。


「ねえ、ライネル」

シルヴィアが小さく笑う。

「結局、“動かぬ石”は誰かを傷つけたわけじゃないのね」


「いや――」

ライネルは立ち上がり、夜の窓を見つめた。

「害をなしたのは“見た者”のほうだ。

そして、俺たちはその害をほどくためにここにいる」


アリアは頷き、マリーベルが火を消す。

最後に残った微かな煙が、まるで石の祈りのようにゆらめいた。


「動かぬものに、罪はない。

けれど、それを“動かしたい”と願う人間の心――

そこにこそ、神にも似た力が宿る」


外では、夜明けの雨が静かに降りはじめていた。

狸の見間違いが、まだ知らぬ未来で起こることを、

このとき彼らは誰も知らなかった。


――“動かぬ石”の事件は、終わった。

だが、“動かぬものを動かす”という問いだけが、

彼らの胸に重く、確かに残った。

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