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第0245話 夜に動くものなら、夜に確かめるしかない

 雨が上がって二日が過ぎた。

 しかし街の空気は、乾くことを忘れたように重かった。

 石壁はまだ湿り、路地には冷たい霧がたゆたっている。

 グレイベルの人々は皆、夜を避け、言葉少なに扉を閉める。

 「石が歩く」という噂は、いつのまにか「石が人を喰う」へと変わっていた。


 〈四葉亭〉の窓を叩く風は弱々しく、

 ランプの火がゆらゆらと息をするように揺れていた。

 ライネルは書類を整理しながら、依頼の記録を読み返していた。


 ――修道女レナ、二十三歳。

 聖歌隊所属。早朝の祈りの最中に石化状態で発見。

 現場に異常な足跡。方向は“被害者に向かって”。

 夜間の目撃者なし。魔力反応なし。


 記録は淡々としている。

 だが、その“淡々さ”が不気味だった。

 この街の空気のように、何かが沈んでいる。


 扉が開く音。

 「おい、石の男。もう三回目だぞ、同じ紙ばっかり見てるの。」

 シルヴィアが笑いながら入ってきた。

 「気になるんだ。」

 「気になるのは紙じゃなくて、石だろ?」

 彼女はテーブルの上に、一枚の羊皮紙を放った。

 そこには、教会の庭の見取り図が描かれている。

 「これ、あたしが夜中に忍び込んで写してきた。……誰にも見つかってない、たぶん。」

 「“たぶん”ってのが怖いな。」

 「怖いのは石だろ? あたしは風。捕まらないのが仕事さ。」

 シルヴィアの軽口が、場の重さをわずかに削いだ。


 見取り図の中央――

 〈眠る聖者像〉と呼ばれる巨大な石像が鎮座している。

 その前に、レナが倒れていた(立ったまま固まった)のだ。


 「足跡の方向、もう一度確認したい。」

 ライネルが指で図をなぞる。

 「ここから、ここへ。聖堂裏門から一直線に、被害者の位置まで。」

 「つまり、“石像が歩いた”としか思えない形。」とマリーベルが言った。

 彼女は窓辺に立ち、外の曇天を見上げていた。

 「理屈がない。……でも、理屈がないものほど、人は信じたがるのよ。」

 「まるで火が勝手に燃え出すみたいに?」

 「そう。誰かが火を点けたくて、世界の隙間を探すのよ。」

 その声は怒りを帯びていた。

 彼女の怒りはいつも、真実を暴くための炎だ。


 「……昨夜、夢を見ました。」

 アリアの声が静かに落ちた。

 「レナが、知らない場所を歩いていました。

  霧の中の橋を渡り、光のない塔の中へ。

  そして……石の扉の前で立ち止まって、こちらを見たのです。」

 「夢、か。」ライネルが目を細める。

 「ただの夢じゃありません。私は、あの子の祈りをよく聞いていました。

  “いつか、動かぬものに命が宿りますように”――

  それが彼女の口癖でした。」


 “動かぬものに命を”。

 その祈りが、もしも本当に届いていたら。

 それは祝福ではなく、呪いの形になっていたのかもしれない。


 マリーベルが唇を噛んだ。

 「信仰が、現実を歪める。……最悪の展開ね。」

 「でも、信仰は力にもなる。」アリアが返す。

 「祈りが誰かを動かすことも、ある。」

 「動かしていいものと、動かしちゃいけないものがあるのよ。」

 火と水がぶつかり、空気がわずかに震えた。

 ライネルは二人の間に手を上げた。

 「落ち着け。真実は、どちらか一方にあるとは限らない。」


 彼の言葉に、シルヴィアが笑った。

 「さすが土の男、どっしりしてるね。……で、どうする? また夜に忍び込む?」

 「今度は堂々と行く。昼でも、“動く石”が見えるなら、それはもう幻覚ではない。」


 *


 昼の教会は、夜よりも静かだった。

 信徒たちの足音が反響し、空気が冷たい水のように張り詰めている。

 聖堂の中心に立つ石像――〈眠る聖者像〉。

 白灰色の石肌は滑らかで、まるで人肌のようだった。

 アリアが前に出て、祈りの言葉を唱えた。

 「あなたは、眠っているだけなのですか? それとも、私たちが眠っているのですか?」


 石像は答えない。

 だが、沈黙は沈黙のままではない。

 それは、聞く者の心によって形を変える“言葉”になる。


 「……この像、どこかで見た気がする。」ライネルが呟く。

 「夢で?」

 「いや。昔、戦場で。敵国の墓標のそばに、これとよく似た石像があった。

  そこでも、“夜ごと石が動く”という噂があった。」

 「結果は?」

 「ただの誤認だった。……だが、その夜、三人が失踪した。」

 沈黙が落ちた。


 そのとき、シルヴィアが像の足元を指差した。

 「ねえ、これ。昨日の足跡、まだ残ってる。」

 確かに、泥が薄く乾いて残っている。

 だが、奇妙なことに――

 足跡が石像の影と重なっている。

 つまり、光の角度が変われば、足跡が“像の足”に見えるのだ。


 「……誤認。」ライネルが小さく呟いた。

 「影と足跡が重なった。夜、灯りが揺れれば、まるで石が動いたように見える。」

 「でも、それだけで人が石になる?」マリーベルが首を振る。

 「見間違いだけじゃ説明できないわ。」


 アリアがゆっくりと目を閉じた。

 「……彼女の祈りを、もう一度思い出して。

  “動かぬものに命が宿りますように”

  それは、動かぬものを動かしたい――という願い。

  信仰が形を持つとき、それは魔法よりも深い。」


 沈黙。

 風が入り口から吹き込み、石の表面を撫でた。

 その瞬間、ライネルは確かに見た。

 ――石像の胸が、微かに、呼吸のように膨らんだのを。


 「今の、見たか?」

 「見た……けど……」マリーベルが言葉を詰まらせる。

 シルヴィアも口を開けたまま、笑えずにいる。

 「まさか、風のせい? いや、そんな……」


 ライネルは静かに一歩近づいた。

 石像の胸に手をかざす。

 冷たい。動きはない。

 だが、“脈”のようなものが、指先に伝わった気がした。

 それは、自分の心臓の鼓動と同じ速さで――

 まるで、同調しているかのように。


 「……動かぬはずのものが、こちらの鼓動を写している。」

 「つまり?」

 「誤認じゃない。共鳴だ。」


 アリアの瞳が、雨上がりの湖のように潤んだ。

 「レナは祈りで、像と心を共鳴させたのかもしれません。

  だからこそ、彼女の身体が“静止”した。

  静けさが、あの子を飲み込んだ。」


 マリーベルが拳を握った。

 「そんな理屈、許せない。祈っただけで、命を奪われるなんて。」

 ライネルは首を横に振る。

 「奪われたんじゃない。彼女は“与えた”んだ。

  動かぬ石に、自分の静けさを。」


 風が再び吹き抜けた。

 その風の音が、どこか遠くの鐘の音と重なった。

 シルヴィアが振り返る。

 「ねえ、今の……鐘?」

 「鐘なんて鳴ってない。」ライネルは即座に答える。

 しかし、誰も否定できなかった。

 たしかに、耳の奥で、石の鳴る音が響いていたのだ。


 それはまるで――

 “動かぬものが、息をしようとしている”音だった。


 嫌な感情が、空気の中にじわじわと広がっていく。

 それは恐怖ではなく、もっと曖昧な感覚。

 理性と感情の境が溶けていく瞬間の、静かなざわめき。


 ライネルは剣を抜いた。

 「このまま放っておけない。今夜、再調査だ。」

 マリーベルが頷く。

 「夜に動くものなら、夜に確かめるしかない。」

 シルヴィアは唇を噛んで笑った。

 「嫌な予感しかしないけど……あたし、そういう夜が好き。」

 アリアはただ、空を見上げた。

 「動かぬはずのものが動き出す夜――

  その静けさを、どうか壊しませんように。」


 その祈りが、どこかで“逆”の形を取ることを、

 誰もまだ知らなかった。

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