第0244話 教会裏で、石像が歩いた
――雨が降っていた。
夜の帳は厚く、瓦屋根の上を滑るように流れる雨筋が、まるで街全体を覆う黒い網のようだった。
街は、石造りの建物が多い。石壁は湿り、苔の匂いを吸い、月の光を拒んでいた。
その静けさのなかで、ふと「動くもの」があると、人は息を止める。
動かぬはずのものが、動いたとき――嫌な感情が、胸の奥に芽吹くのだ。
俺――ライネルは、〈四葉亭〉の裏口で雨を払った。
鎧の隙間に入り込んだ冷たい水が、皮膚の上をゆっくりと滑り落ちていく。
湿気に濡れた夜気の中、木扉の向こうから、酒と煙草と火の匂いが混ざり合った暖気が漏れていた。
灯りのもとで、風の盗賊シルヴィアが、靴を脱ぎながら鼻歌を歌っている。
「おかえり、石の男。今日も顔が土色ね。街中の噂、もう聞いた?」
「噂?」
「教会裏で、石像が歩いたってさ。足跡つきで。」
俺は眉をひそめた。
「石が……歩く?」
「そう。しかも、足跡がちゃんと泥についてたって。あたしは現場見てないけど、通りの連中が口々に言ってるわ。『動く石』だってね。」
彼女は軽く笑い、杯を持ち上げた。
「ま、どうせ酔っ払いの見間違いよ。雨の夜は、影も足跡も二重に見える。」
その軽さに、俺はいつも救われると同時に、胸の奥でひっかかりを覚える。
動かぬものが動く――それは、目の錯覚では片づけられない種類の“不快な確信”を呼び起こすのだ。
カウンターの奥、火属性の魔法使いマリーベルが、ランプの芯を整えていた。
「くだらない噂ね。石が動くなら、まず炎に当てて確かめてみなさいよ。割れるだけよ。」
「だが、割れる前に歩いたとしたら?」と俺。
マリーベルは顔を上げ、深紅の瞳を光らせた。
「……その場合は、歩いたあとで割れるのよ。」
彼女の声は、暖炉の火のように短くはじけた。
言葉の端に、焦燥と怒りが滲んでいた。
怒りっぽい彼女の癖は、真実を怖れている証でもある。
“もし本当に石が動いたなら、世界の法則が揺らぐ”――その直感が、彼女を苛立たせていた。
そして、水の僧侶アリアが、静かに祈りの珠を撫でながら言った。
「……動いたのは、石ではなく、見た人の心かもしれません。」
彼女の声は、雨の音と同じ速さで消えていく。
「誰かが、そう“見たい”と思った。あるいは、“見えた”ことにしてしまいたかった。
動かぬものを、動かすために。」
彼女の言葉が落ちた瞬間、店内の音が遠のいた。
酒場の客たちのざわめきの奥で、俺の耳は雨音だけを拾っていた。
雨が、何かを語っている。
――“石が歩いた”という言葉の裏に、何かが潜んでいる。
その夜のうちに、依頼は来た。
使いの少年が〈四葉亭〉の扉を叩いたとき、夜明けはまだ灰色のままだった。
羊皮紙に書かれていたのは、神学校の印章。
――「聖堂裏において、奇異なる現象発生。調査および鎮静を依頼する」
署名は、神学校長グレオ・バイン。
名前を見た瞬間、俺の眉は動いた。あの男が、わざわざ民間の探偵団に依頼を寄こすとは。
事態はただの噂ではない。
マリーベルは紙を火にかざして透かした。
「正式依頼ね。……嫌な予感がする。」
「珍しく、あんたが先に怖気づくなんて。」シルヴィアが笑う。
「怖気づくんじゃないわ。“嫌な感情”が、もう生まれてるのよ。
石が動くなんて話、信じたくもないのに、信じた瞬間に世界が歪む。――それが怖いのよ。」
嫌な感情。
確かに、あの言葉には重みがあった。
人は、動かぬものに“動いた気配”を感じたとき、
現実を疑い、自分の感覚を責める。
――なぜ見た? なぜ感じた?
その自問こそが、真の恐怖だ。
*
翌朝、俺たちは教会へ向かった。
雨は止み、空には薄い霧がかかっていた。
石畳の道は濡れた銀の鏡のように光り、歩くたびに水面が微かに震えた。
アリアは祈りの珠を首から外し、胸の前で握った。
「祈りは静けさの中にある……けれど、静けさが壊れる瞬間を、人は最も恐れる。」
「まるで詩人ね。」シルヴィアが笑う。
「詩じゃなく、戒めです。」
教会の門前に立つと、石像たちがこちらを見下ろしていた。
翼を広げた天使、剣を掲げた聖人、祈る修道士。
どれも静止しているはずなのに、
その沈黙の中に、かすかな呼吸の気配があった。
俺は、無意識に剣の柄に手をかけていた。
「石が呼吸するように見える。目の錯覚だろうか。」
マリーベルが前に出る。
「いいえ。呼吸しているのは私たち。
息を止めれば、きっと石の方が息をして見える。」
その理屈が正しいほど、心が揺れる。
正しさは、恐怖をより鮮明にするのだ。
やがて、教会の奥から学長グレオが現れた。
彼の目の下には深い隈があり、手は震えていた。
「来てくれたか。……見せよう。」
彼が導いたのは、聖堂裏庭の花壇だった。
そこに――
ひとりの修道女が立っていた。
いや、“立ったまま”石になっていた。
彼女の顔には、静かな微笑みが宿っていた。
祈りの途中で止まったように、掌を合わせたまま、
衣の裾までもが灰色に固まっていた。
雨の跡がまだ残っている。
足元には、泥の足跡。
それは、彼女のものではなかった。
――足跡は、彼女のほうへ向かっていた。
「これは……?」俺は呟いた。
グレオが答える。
「誰かがここに来た形跡はない。
だが、足跡は確かに残っていた。
まるで“石像が歩いて、彼女の前に立った”ように見える。」
“逆・密会の折の足跡”。
密やかな逢瀬ではなく、沈黙の訪問。
動かぬものが、人のもとへ歩み寄ったように見える――
それこそが、人を狂わせる“誤認”の始まりだった。
マリーベルが足跡に手をかざし、炎の魔法でわずかに乾かす。
「温もりは……ない。」
「だが、湿り気は新しい。」俺は言った。
「雨が止んでから、長くは経っていない。」
アリアが修道女の石化した頬に触れる。
「……冷たい。けれど、涙の跡がある。」
マリーベルが振り向く。
「涙? 石が泣くっていうの?」
「いいえ。――人が、石になる前に泣いたのです。」
アリアの声は、風のように柔らかく、確かな哀しみを帯びていた。
俺は沈黙した。
“動かぬ石”と、“動かぬ心”の違い。
それを、人間は見誤る。
信仰も、恐怖も、思い込みも――
動かぬものを動かす力を持ってしまう。
嫌な感情が、胸の底でじっと息をひそめた。
この静けさは、まだ終わらない。
いや、ここから始まるのだ。
“石の静寂”の奥に潜むもの――
それは、害意ではなく、“誤認による芽吹き”なのかもしれない。
雨上がりの空の下、俺は一歩、足跡の隣に踏み出した。
土の匂いが、確かに生きていた。
――石が動く夜に、人の心が動いている。
それこそが、もっとも厄介な現象だった。




