第0242話 この雨が、すべてを赦すものでありますように
雨は、どこから降り始めたのだろう。
誰が最初に、この涙のような天の雫を“祝福”と呼んだのだろう。
四葉亭の窓硝子を伝い落ちる雨粒が、夜灯の明滅をゆるやかに歪めていた。
テーブルの上には、古びた祈祷書と、半ば乾いた血の跡。
そこに立ち尽くしているのは、かつて尼であった女――アリア。
彼女の指先は震え、唇は、まだ祈りの言葉を覚えていた。
「……信じることが、罪なのかもしれないね」
マリーベルが静かに言った。
その炎色の髪は、暖炉の火に照らされて朱く揺れる。
怒りと悲しみのあわいを、燃え滓のように抱えながら。
「罪じゃない。ただ……信じすぎたんだ、きっと」
シルヴィアが椅子の背にもたれ、軽口のように言う。
けれど、その眼の奥には、風のように逃げ場のない優しさがあった。
ライネルは黙って杯を傾けていた。
重い沈黙の中、彼の掌が、石のように冷えている。
土の騎士は、言葉よりも現実の形で真実を見つめようとする男だった。
「――『あり得ぬもの』とは、何だったのだろう」
ライネルの呟きが、雨音に溶けて消えた。
答えるように、アリアが祈祷書を開いた。
頁の隙間に、干からびた花弁が一枚、挟まっている。
それは、かつて彼女が尼院の庭で世話をしていた、枯れた百合の花。
――“枯れた植物が芽吹く”という、あり得ぬことを信じた少女の名残。
援助者であった老司祭の言葉が蘇る。
〈信仰とは、根を失った土に種をまくことだ。芽吹くか否かは、神ではなく、人の心の働きによる〉
その意味を、アリアはようやく理解していた。
芽吹かぬ花を前にしても、祈りは消えない。
それこそが、“あり得ぬもの”――信仰と愛の境界に宿る、人間の真実だった。
◆
敵対者――「行きの足跡と帰りの足跡」の男が、再び姿を現したのは、その翌晩だった。
かつての尼院の前、雨に煙る石畳の道で。
彼の靴跡は、往路と復路が重ならない。
まるで、同じ場所を歩いても、彼の魂は別の道を選び続けているようだった。
彼こそは、アリアの“かつての教え子”。
彼女が神に仕えていたころ、禁忌の祈りを教えてしまった少年――カルド。
「師よ。あなたは、堕ちたのですか」
「堕ちたわけじゃない。ただ……戻っただけよ。あなたたちが拒んだ、この地上に」
彼は笑う。
雨が彼の頬を濡らすのは、涙なのか冷水なのか、誰にも分からなかった。
「ならば、俺も戻りましょう。あなたを追って。地獄の底にでも」
その瞬間、マリーベルが炎の障壁を展開した。
ライネルは剣を抜き、シルヴィアが雨粒を切るように身を翻す。
アリアだけが、その場で動かず、目を閉じた。
――なぜ、争うのだろう。
――愛とは、同じ神に向かう祈りであるはずなのに。
そして、彼女はふと思った。
“愛すること”と“信じること”が同義ではないということを。
信仰は高みにあり、愛は泥の中に根を張る。
両者が交わる時、世界は逆転する。
あり得ぬこと。
だが、そのあり得ぬ逆転こそが、人の心の真実を映す鏡なのだ。
◆
戦いのあと、アリアは廃墟の屋根の下で、ひとり雨宿りをしていた。
破れた衣の下、胸の奥で、心臓の鼓動が確かに生きている。
彼女はそれを“罪”ではなく、“生命”として受け入れた。
雨脚が次第に弱まり、地面に散った花弁が溶けるように消えていく。
その中で、ライネルが静かに近づき、彼女の肩に外套をかけた。
「戻る場所があるなら、そこが真実だ。たとえ、それが俗世の泥の中でも」
アリアは微笑み、うなずいた。
その微笑みの中には、もはや“尼”の影はなかった。
かわりに、ひとりの女の穏やかな光があった。
――枯れた花が芽吹くことなど、あり得ぬ。
――だが、あり得ぬことを、誰かが信じ続ける限り、それは起こり得る。
そして彼女は、心の底で祈る。
「この雨が、すべてを赦すものでありますように」と。
その祈りは、もう神にではなく、
この世に生きるすべての“あり得ぬ者”たちへ向けられていた。




