第0241話 神は、愛を罰するのか
夜が明けぬまま、彼らは出発した。
森を渡る風は冷たく、どこか古い祈りのように重かった。
道は泥に沈み、足跡を刻むたび、雨水が静かに満ちていく。
先頭を歩くライネルの背中は、湿気に濡れた鉄のように鈍く光っていた。
その後ろを、シルヴィアが口笛を吹きながらついてゆく。
マリーベルは杖を携え、時おり空を仰ぐ。
アリアは――沈黙の中で、歩幅を小さくしていた。
廃れた修道院の鐘楼が、霧の中に浮かび上がったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
屋根は崩れ、蔦が石壁を覆っている。
だが、礼拝堂の扉だけは不思議なほど無傷だった。
エリナがその扉の前に立ち、祈るように手を合わせた。
「……ここで、すべてが始まり、終わったのです」
ライネルが低く唸る。
「終わったものを、もう一度動かそうってのか。……そんなこと、あり得ない」
「あり得ぬことが、心の真実を映す――」
エリナは微笑む。「あなたたちがそう教えてくれたのでしょう?」
ライネルの口が閉じた。
その代わりに、マリーベルが一歩前に出る。
「……禁じられた儀式を行ったとき、何が起きたの?」
「祈りの言葉を唱えた瞬間、彼の魂が――“来た”のです」
エリナの声が震える。
「だけど、同時に“誰か”が現れ、私たちを止めようとした」
「誰か?」
「……私自身でした」
四人の間に、風が通り抜けた。
シルヴィアが思わず笑う。
「は? 二人いたってこと? それ、どんな冗談?」
「冗談ではありません」
エリナの瞳に、深い闇が宿る。
「行きの足跡と、帰りの足跡。――どちらが“本当の私”だったのか、もう分からないのです」
マリーベルが杖を強く握る。
「つまり、あなたは儀式で自分を分けたのね。愛する者を呼び戻す代わりに、自分を半分、死の側へと捧げた」
エリナは頷く。
「ええ。だから今、私は“半分だけ生きている”。そして彼もまた――」
その言葉を遮るように、礼拝堂の扉がひとりでに開いた。
冷たい風とともに、黒い霧が吹き出す。
霧の奥に、誰かの影が立っていた。
「……まさか」
アリアの声が震える。
影はゆっくりと歩み出た。
それは確かに“男”の姿をしていた。
だが、その足跡は――逆向きに刻まれていた。
行きと帰りの足跡が、同じ地に重なっている。
まるで、最初からそこにいたかのように。
ライネルが剣を抜く。
「下がれ!」
マリーベルが呪文を唱える。炎が光を放ち、男の輪郭を照らした。
その顔を見た瞬間、エリナが叫ぶ。
「やめて! 彼は――!」
だが、炎が照らしたその目は、確かに“人”のものではなかった。
瞳孔は逆光のように裏返り、黒の中に光が揺れている。
「おまえは……」ライネルが呻く。
「この世に“帰る”べきじゃなかったんだ」
男――エリナの“愛した者”は、声にならぬ声で笑った。
そして、逆向きの足跡のまま、一歩前へと進んだ。
その瞬間、床に刻まれた聖印が裂ける。
マリーベルが詠唱を止め、シルヴィアが素早く後退する。
「駄目だ、ライネル!」アリアが叫ぶ。
「この礼拝堂……時間が反転してる!」
確かに、蝋燭の炎が逆に燃えている。
雨音が遠ざかるように、上から下へと流れていた。
“行きの足跡”と“帰りの足跡”が、同じ瞬間に重なり、世界の理がねじ曲がっている。
エリナが男のもとへ駆け寄ろうとする。
「彼を戻さないで――! 彼はまだ……!」
だが、その腕をアリアが掴んだ。
「やめて。これは、愛じゃない……」
「では何なのです?」
エリナの瞳に、涙が滲む。
「私は彼を想い続けた。それが罪なのですか? 神は、そんなにも冷たいのですか?」
アリアは言葉を失う。
自分自身の心にも、同じ問いがあったから。
――神は、愛を罰するのか。
そのとき、男がエリナに手を伸ばした。
触れた瞬間、礼拝堂の壁に無数の“影の足跡”が浮かび上がる。
それは、帰ることのない魂たちの記録。
ライネルが剣を掲げた。
「終わりにしよう。これは現実じゃない」
「現実ってのは、いつだって“信じたい方”のことだろ?」
シルヴィアの声は笑っていたが、その瞳は恐れていた。
マリーベルが詠唱を再開する。
炎が再び燃え、黒い霧を焼き尽くす。
だが――男は消えず、ただ、微笑んでいた。
アリアの胸の奥に、強烈な痛みが走る。
それは、嫌悪ではなく、理解だった。
彼女もまた、誰かを“呼び戻したい”と願ったことがある。
信仰の名の下で、何度も押し殺してきた想い。
――だから、止めなければならない。
アリアは杖を掲げた。
冷たい水の魔法が、炎と交わり、白い霧となって礼拝堂を満たす。
男と女の影が、霧の中で重なり、そして――離れた。
風が止む。
雨音がふたたび屋根を打つ。
時間が、正しい方向へと流れ出した。
エリナが膝をつき、静かに涙を落とす。
「……彼は、もう、行ったのですね」
アリアはそっと彼女の肩に手を置いた。
「行きと帰り、どちらの足跡も、あなたのものです」
エリナは小さく頷いた。
「愛も信仰も、私の中で――ようやく、ひとつになれた気がします」
外では、空が明るみ始めていた。
雲の切れ間から差す光が、礼拝堂の瓦礫を照らしている。
その光の中で、アリアは確かに見た。
地面に、ひとつだけ残った足跡。
――行きも帰りもない、ただ“今”に立つ足跡だった。




