第0240話 その愛は、きっと自分の信仰を壊す
雨はまだ止まない。
「四葉亭」の屋根を叩く雨音が、まるで誰かの懺悔の声のように響いていた。
蝋燭の炎がわずかに揺れるたび、アリアの指先も震えた。
尼僧の衣を纏った女――エリナが、卓上に置かれた聖典を指でなぞっている。
その手は生者の温もりを持ちながら、どこか死の静けさを帯びていた。
「……あなたがたに、あるものを取り返してほしいのです」
エリナの声は、湿った夜気のように低く響いた。
「取り返す?」
ライネルが眉をしかめる。「何を」
「“根づいたもの”です」
彼女は小さく微笑んだ。その笑みは、墓前に咲く花のように痛ましかった。
「私は、枯れたものから芽吹きを見たのです。――あり得ぬことを」
シルヴィアが脚を組み、退屈そうに唇を噛む。
「枯れたもんが芽吹く……それって、死人が蘇るような話じゃない?」
エリナの瞳がゆっくりと彼女を見た。
その瞳は深い湖のように、底が見えない。
「……そうかもしれません。けれど、愛があれば、命は戻る。信仰とは、それを許すものでしょう?」
アリアは息を呑んだ。
――信仰とは、許すもの。
あまりにも甘く、あまりにも危険な言葉。
彼女の胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。
マリーベルが立ち上がった。
「ふざけないで。禁じられた儀式を行ったのね」
その瞳が燃えている。
「死者を呼び戻すなど、神を侮辱する行為。……それを“愛”で正当化するなんて、許されるはずがない!」
「許しとは、神だけのものではないでしょう?」
エリナの言葉は、火に水を注ぐように静かだった。
「私たちは、愛する者を失ったとき、神に祈るでしょう。けれど、その祈りの中で、神よりも先に――愛する者を呼んでいるのではありませんか?」
沈黙。
蝋燭が消えそうになり、アリアがそっと火を守る。
彼女の指は冷たい。
心のどこかで、エリナの言葉に“真実”を感じてしまったから。
――神よりも先に、愛する人を。
胸の奥で、嫌な感情が湧いてくる。
それは、かつて修道院で感じた“禁忌の想い”と同じものだった。
亡くなった修道長の姿。葬儀の日の、あの雨。
アリアは自分の頬に、熱いものが伝うのを感じた。
「……あなたの言う“根づいたもの”とは?」
ライネルが低く問う。
「彼です」
エリナは胸に手を当てた。
「かつて私が祈りを捧げた、ただひとりの人。彼の魂を、私はこの世に呼び戻してしまった。……けれど、それは、完全ではなかったのです」
シルヴィアが軽口を封じ、黙り込む。
マリーベルが手の中で杖を握り締める。
「儀式の中で、何かが――“欠けた”のです」
エリナはゆっくりと目を閉じた。
「その欠けたものを、取り戻したい。それが“依頼”です」
風が扉を叩く。
外では雷鳴が鳴り、雨脚が一層強くなった。
「……禁じられた儀式を行った場所は?」
ライネルの声が低く響く。
「修道院の裏の礼拝堂。――いまは、廃墟となっています」
その言葉を聞いた瞬間、アリアの背筋を冷たいものが走った。
かつて自分が仕えていた修道院の名を、彼女は確かに聞いたのだ。
アリアが唇を震わせる。
「あなた……まさか、“聖ルティア修道院”の……?」
エリナはゆっくりと頷いた。
「ええ。あなたが、まだ見習いだった頃、私はそこにいました」
世界が、ぐらりと傾いたように感じた。
アリアは椅子を掴み、かろうじて立っていられた。
「……死んだはず……なのに……」
「あり得ぬことは、時に真実を映します」
エリナは微笑んだ。
「神は、愛を罰するでしょうか?」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
沈黙を破ったのは、シルヴィアだった。
「で、つまりあんたは“愛の亡霊”ってわけだ」
彼女は立ち上がり、軽く肩をすくめる。
「けどまあ、依頼は依頼。報酬は?」
その現実的な言葉が、張り詰めた空気を一瞬だけ和らげた。
エリナは微笑み、銀の十字架をテーブルに置いた。
「この祈りが、すべての報酬です」
十字架には、黒い染みがあった。
それは血のようで、涙のようでもあった。
アリアがその十字架に触れた瞬間、視界が暗転した。
――祈る声。
――男の笑い。
――燃える礼拝堂。
すべてが一瞬にして消え、目を開けると、仲間たちの心配そうな顔が見えた。
「……幻覚を見たのね」
マリーベルの声が震える。
アリアはただ頷いた。
その中に、言葉では説明できない“確信”があった。
――この依頼の先には、神ではなく、“愛”が待っている。
そしてその愛は、きっと自分の信仰を壊す。
雨が止まぬ夜。
「四葉亭」の看板の下で、四人の影が揺れていた。
彼らは、あり得ぬものを信じる者たちの代わりに、禁忌の礼拝堂へ向かうことを決めたのだ。
その旅の果てで、誰が祈り、誰が泣くのか――
まだ、誰にも分からなかった。




