第0239話 “君が信じた神は、君自身だ”
夜明けとともに雨は弱まったが、空にはまだ重い雲が垂れ込めていた。
街道はぬかるみ、車輪の跡が泥の溝となって続いている。
四葉亭を出たライネルたちは、王都の外れにある“セラフィナ修道院”へと向かっていた。
エルネラは先頭を歩く。
尼服の裾は雨を吸い、重くまとわりついている。
だがその歩みには迷いがなかった。
――まるで、罪そのものを踏みしめるかのように。
シルヴィアが口笛を吹いた。
「ずいぶん陰気な朝だね。修道院ってのは、いつもこう湿っぽいの?」
「口を慎め」ライネルが低く言う。「聖域だ」
「聖域ねぇ。……汚れることを恐れる場所が、ほんとに聖いのかね」
その言葉に、アリアが小さく目を伏せた。
「汚れを恐れるのは、清らかさを求めるから。
でも――清らかさを保てないのは、人が“生きている”証なのですよ」
「詩人だね、水の聖女さん」シルヴィアが笑う。
「詩は神への祈りです」
「祈りにしては、泥まみれの旅路だ」マリーベルが炎の杖で泥を払いながらぼそりと呟く。
そのやり取りを聞きながら、エルネラは黙っていた。
ただ、心の奥にざらりとした違和感が残る。
――彼らの中に流れる“生の匂い”が、痛いほど眩しかった。
*
修道院が見えてきたのは昼近くになってからだった。
灰色の石造りの建物が、丘の上に沈黙して立っている。
尖塔の十字架は錆び、壁を伝う蔦は黒ずんでいる。
雨に洗われたはずの空気は、なぜか埃の匂いを含んでいた。
「……ここが、あなたがいた場所か」
ライネルの声に、エルネラはうなずく。
「ええ。ここで、彼と祈りました」
その言葉には、祈りというより、告白の響きがあった。
門を叩くと、若い修道女が現れた。
彼女はエルネラを見るなり、息をのんだ。
「……姉さま……?」
「覚えていてくれたのね、リナ」
「でも、姉さまは――追放されたはずでは……」
「今日は、ただの訪問者です」ライネルが割って入る。「修道院長に取り次いでほしい」
扉が閉じ、やがて重い音とともに再び開いた。
アンドラス修道院長が現れる。
白髪交じりの長身、瞳は鋭く、まるで雨の刃のようだった。
「エルネラ。……神はおまえを赦さぬだろう」
「ええ、わかっています」彼女は頭を下げた。「でも、真実が知りたいのです」
アンドラスの視線が、ライネルたちに移る。
「俗世の者を連れて、何をしに来た?」
「彼女の依頼で、調べに来た」
「調べる? 何を。神の奇跡を、貶めるつもりか?」
「奇跡と罪の区別を」ライネルは短く答えた。
院長は一瞬だけ目を細め、それから背を向けた。
「好きにしろ。ただし、神の沈黙を破る者には、それなりの報いがある。」
*
修道院の回廊を歩くと、冷たい空気が肌を刺した。
壁には古い聖画が並び、どれも水滴に濡れている。
アリアは立ち止まり、指で聖母の顔に触れた。
「泣いているように見えますね……」
「湿気だろ」マリーベルが言い捨てる。
「湿気でも、涙でも……同じかもしれません」アリアは微笑む。
エルネラは案内するように、祭壇の間へ進んだ。
そこには、噂の“枯れ花”が置かれていた。
白い百合。だが、色は抜け、茎は乾ききっている。
それなのに――ライネルが近づくと、かすかに香りがした。
「花の匂い……? 枯れているのに」
「雨の夜だけ、香りが戻るのです」とエルネラ。
「彼が祈った夜も、そうだった」
シルヴィアが低くつぶやく。「死人の祈り、ね……。あり得ねぇ話だ」
「あり得ぬことこそ、真実を映す」とライネルが応じた。
そのとき、奥の扉が軋んだ。
若い修道女リナが駆けてくる。
「院長が……彼の部屋を開けていいと」
案内された小部屋は、埃と沈黙に満ちていた。
窓辺に古びた祈祷書、机にはロウソクの跡、そしてベッドの上に――
一枚のロザリオ。
アリアがそっと手をかざす。
淡い光がロザリオに宿り、低く震えた。
「……まだ“祈り”が残っています」
「祈りが?」マリーベルが眉をひそめる。「そんな馬鹿な」
「祈りは言葉ではなく、意志なのです。……誰かが、まだここで、何かを願っている」
その瞬間、外で雷が鳴り、窓ガラスが震えた。
ロザリオの珠が、わずかに音を立てる。
「……おかしいな」シルヴィアがつぶやいた。
「行きの足跡と、帰りの足跡が違うんだ」
「何の話だ?」
「この部屋の床、見てみな。泥の跡がある。……入った者の足跡が“二つ”あるのさ」
ライネルがしゃがみ込み、じっと床を見た。
確かに、二人分ではない。ひとりが“行き”と“帰り”で違う靴を履いたように、形が異なっている。
「生者と、死者の足跡……か?」
「まさか」マリーベルが小さく吐息を漏らす。「そんなことが、あり得るはずが」
エルネラは青ざめた顔で呟いた。
「……彼が、戻ってきた夜が、あったのです」
*
夕刻、修道院を出るころには、また雨が降り始めていた。
空は赤黒く染まり、遠くで鐘の音が響く。
彼らの足跡が泥に沈むたび、雨がそれを洗い流していく。
「ねえ」シルヴィアが小声で言った。「あの院長、何か隠してるね」
「当然だ」ライネルは短く答えた。「罪はいつだって、祈りの下に隠される」
「じゃあ、あの花の香りも?」
「誰かが、罪を匂わせぬよう、祈りつづけている証だ」
アリアが小さく呟いた。
「枯れた花に香りが戻る――それは、赦しの兆しかもしれません」
「赦し?」マリーベルが肩をすくめる。「罪が花になるなんて、皮肉ね」
「皮肉でも、美しいわ」アリアの声は雨音に溶けた。
エルネラは雨空を見上げた。
灰の雲の奥に、微かに光が射していた。
それはまるで、神でもなく、罪でもなく、
――彼女自身の中に灯る“あり得ぬ希望”のようだった。
*
夜。
彼らは修道院近くの廃屋で焚き火を囲んでいた。
マリーベルが火を操り、赤い炎が壁を揺らす。
シルヴィアが葡萄酒の瓶を回し、アリアが小さく歌を口ずさむ。
ライネルは沈黙のまま、エルネラの話を聞いていた。
「……あの夜、私は祈ったのです。彼が生きていてくれるように。
もし叶うなら、神を裏切ってもいいと」
「それで?」
「花が咲いた。彼は死んでいたはずなのに、私の前に現れたのです」
焚き火の音が止んだように感じた。
「……触れられたのか?」ライネルが問う。
「ええ。冷たい手でした。でも確かに、そこに“彼”はいました」
「そして?」
「彼は微笑み、こう言ったのです。
――“君が信じた神は、君自身だ”と。」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
火の揺らめきの中、エルネラの顔が一瞬、尼ではなく“ひとりの女”に戻った。
アリアが祈るように目を閉じた。
「その夜から、花が香るのですね」
「はい。あれ以来、雨が降るたびに」
シルヴィアが酒をあおり、呟いた。
「あり得ぬことが起きた時、人はようやく“本気で信じる”んだな」
マリーベルが火の杖を突き立てた。
「だが、信仰は感情じゃない。……あの院長が言ってた。
“神の沈黙を破る者には報いがある”と。」
「報いね」ライネルが低く笑った。「なら俺たちは全員、報われるべきだ」
外では、また雨が降り始めた。
音は優しく、どこか懐かしい。
その音の中に、誰かの祈りが溶けていくようだった。
エルネラは焚き火の光の向こうに、亡き恋人の影を見る。
彼の笑顔は、雨のしずくに揺れていた。
――“君が信じた神は、君自身だ”。
その言葉が、胸の奥でゆっくりと燃えはじめる。
あり得ぬことを、信じてしまった夜。
その夜から、彼女の祈りは止まらなかった。
雨は、まだ静かに降っていた。
まるでその祈りを聞いているかのように。




