第0238話 修道院長アンドラス
雨は夜の街を溶かしていた。
石畳を叩く水の粒は、まるで誰かの告白を拒むように、冷たく、しつこく降りつづいている。
四葉亭――王都の外れにある、古びた木造の酒場。その看板のクローバーも、いまや泥にまみれ、ぼんやりとした灯を反射していた。
扉を押して入ると、焚き火の匂いと、古い葡萄酒の湿った甘さが鼻をつく。
奥のテーブルには、四人の影。
土の騎士ライネルが、重い外套の水を払いながら座り、黙って杯を傾けている。
風の盗賊シルヴィアはカウンターに肘をつき、靴を投げ出して欠伸をしていた。
火の魔法使いマリーベルは暖炉の前に立ち、濡れた髪を炎の熱で乾かしている。
そして、水の僧侶アリアは、静かに手を合わせていた。祈りというより、雨の音を聴いているように見えた。
――そのとき、扉がもう一度、軋んだ。
風に押されるように、一人の女が入ってきた。
尼僧服をまとってはいたが、裾は泥に汚れ、布の下から覗く足首には、銀の鈴が光っていた。
顔を上げたとき、その瞳が、一瞬、火の光を映した。
その色は、僧のものではない。
――俗世の女の、熱を帯びた瞳だった。
「……旅の方? この嵐の中で?」
アリアがそっと声をかける。
女は少しうつむき、唇を湿らせるようにして言った。
「……雨宿りを、少しだけ。けれど、あなたたちに……お願いがあるのです」
その声には、祈りと後悔と、どうしようもない切なさが混ざっていた。
ライネルは眉を動かし、重い声で答えた。
「俺たちは“探り屋”だ。失せ物、裏切り、死人の言葉――何でも請け負う。
だが、尼が我らに頼むとはな。どんな『お願い』だ?」
女は小さく微笑んだ。
「死んだ男の“真実”を、見つけてほしいのです」
沈黙が、酒場の奥に落ちた。
暖炉の火がぱち、と爆ぜ、マリーベルが振り向く。
「死人の真実、ね。そりゃあ坊主に頼むことじゃない?」
「……いいえ。坊主にはできません。神の御業だと、皆は言いました。でも……」
女の指が、胸元の十字架を握る。
「私には、どうしても“あり得ぬこと”に思えるのです」
彼女の名は、エルネラと名乗った。
かつて修道院で祈りに生きた尼。
だが、ある日を境に姿を消し、数ヶ月後、愛した男・カリス神父の死の報せと共に“俗世の尼”として現れた。
ライネルは、その名をどこかで聞いた気がした。
「……修道院で奇跡が起きた、と噂になった女か。
雨の夜、枯れた花が咲き、死人が祈った、と。」
「ええ。――けれど、あれは奇跡ではありません」
エルネラは杯に指を伸ばした。手が震えている。
「彼は、私のために死にました。私が、彼を殺したのです」
その瞬間、暖炉の炎がひゅう、と音を立てて揺れた。
空気が冷たくなった。
「……なあ」シルヴィアが低く笑う。「尼が、愛を語るなんて、ずいぶんと洒落た時代ね」
「からかうのはやめなさい」アリアがたしなめる。「この人は本気よ。……目を見ればわかる」
ライネルは椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。
「話せ。――あり得ぬことが、どうして起きたのか。」
エルネラは目を伏せ、静かに語り始めた。
雨の夜、修道院の鐘が鳴る前のこと。
病に倒れた村人たちを救うため、神の加護を求めて“禁じられた儀式”を行ったこと。
その祈りの中心にいたのが、若き神父カリスだったこと。
そして、儀式の翌朝、彼が祭壇で息絶えていたこと。
にもかかわらず、その夜、誰かが修道院で祈りを捧げ、枯れた花を咲かせたこと。
「皆はそれを奇跡と呼びました。でも、私は……信じられなかった。
――あれは、愛が神を動かしたのではなく、私の“罪”が神を汚したのではないかと」
マリーベルが低く吐き捨てるように言う。
「つまり、自分のせいで奇跡が起きた……そう言いたいわけね」
「そうではありません」
エルネラの声は震えていたが、瞳には確かな光が宿っていた。
「彼は、神を信じていた。でも私は、彼を信じていたのです。
――どちらの信仰が、正しかったのでしょう?」
その問いは、まるで剣のようだった。
神と人との間、清らかさと欲望の間。
その刃の上を、彼女は裸足で歩いている。
アリアが手を伸ばし、そっとその手を包んだ。
「信仰は、罪の数だけ形を持ちます。……あなたの花も、きっとそのひとつです」
だが、マリーベルは火花のような声で言い返した。
「信仰に“愛”を混ぜた時点で、それは穢れよ」
「なら、あなたの炎は?」シルヴィアが笑う。「燃やすためにしかあるまい」
「黙りなさい、泥棒風情が」
「はいはい、炎の正義様」
酒場にまた、火の音が弾けた。
ライネルは無言で杯を置いた。
彼の沈黙が、嵐より重かった。
「……エルネラ」
低く、岩のような声が響く。
「真実を探ることは、時に神をも疑う行為だ。それでも、望むか?」
女は小さくうなずいた。
「ええ。私は――“神の真実”ではなく、“人の真実”を知りたいのです。」
その言葉を最後に、風が酒場の窓を叩いた。
雨はまだ止まない。
まるで天が、彼女の願いを拒むように。
――しかし、ライネルは立ち上がり、剣の鞘を鳴らした。
「いいだろう。雨の修道院へ行こう。
奇跡と罪の区別を、見せてもらおうじゃないか。」
外では、稲妻が街を裂いた。
四人の影と、ひとりの尼が、夜の雨の中へ消えていく。
その背を、誰かが見ていた。
――修道院長アンドラス。
窓越しに祈りの数珠を回しながら、彼は呟く。
「俗に堕ちた尼は、再び神に還ることなどできぬ……。
だが、あり得ぬ花を咲かせたのは、誰だったのか――?」
雨は、止む気配を見せなかった。




