第0236話 世界そのものが逆に息をしている
「……つまり、あたしが“犯人”に見えたのは、数字が“見る側”を選んだから、ってわけ?」
女の声が、冷たい石壁に反響した。
夜明け前、城塞都市の東端にある廃礼拝堂。
砕けたステンドグラスの破片が、青ざめた月光を切り刻むように床を照らしている。
マリーベルは、手にした杖を静かに下ろした。
火属性の彼女の炎は、今や消えかけた燭台の芯で、細く頼りなく揺れている。
だがその目は燃えていた。数字を追い詰めるように、真実を暴こうとする執念で。
「数字は、誰のものでもないわ」
そう答えたのは、アリアだった。
彼女の声はまるで冷たい小川のせせらぎのようで、沈んだ空気をわずかに洗った。
「書かれた記号は、読まれた瞬間に“鏡”になる。あなたがその鏡に怒りをぶつけたから、数字は“あなたを見た”のよ」
マリーベルは、苦笑した。
「鏡ね。便利な言い訳じゃない。結局、自分が燃やしたい相手を“数字”って呼んだだけなんでしょう?」
その言葉に、空気がひび割れるように張りつめた。
風が吹き、破れた礼拝堂の幕が、ざわ、と音を立てる。
その向こうから、軽い足音。風のような笑い声が、ひょいと割り込んだ。
「まあまあ、火の姐さん。焦げつく前に、ちょっと聞いてよ」
シルヴィアが現れた。風属性の盗賊。
彼女は片手に金貨を弄びながら、礼拝堂の奥に立つ“遺産の女”を顎で指す。
「本当の依頼人──“余命いくばくもない人の遺産を狙う女”の方は、もう逃げたよ。けどね、残された“数字”の暗号、読めたの」
「読めた……?」ライネルが低くうなった。
土の騎士の声は重く、どこか地鳴りのように響く。
「それは、単なる数字の羅列ではなかったのか?」
「羅列、ねぇ。そう見えるうちは、誰も真実を掴めない。
でも――この数字は“足跡”だったのさ。密会の夜、誰がどこを歩いたか。
数字が、視線の流れを“反転”して記してたのよ。」
「反転?」マリーベルが眉をひそめる。
「どういうこと……?」
シルヴィアは金貨を止め、真顔になった。
「たとえば、“12”って数字。普通なら“1から2へ進む”って読むよね?
でも逆に、“2から1へ戻る”としたら?
その数字を並べると、道が“逆”に浮かび上がるの。まるで鏡を見ているように」
ライネルの拳がわずかに震えた。
「……つまり、我々が見ていた『証拠』そのものが、鏡像の地図だった、と」
「そう。“見る者”と“見られる者”が逆転してた。
あたしたちは真実を暴こうとして、ずっと“誰かに見せられてた”のよ。
数字の暗号も、遺産も、女の正体も。全部“観測される側”の罠だった」
静寂が降りた。
礼拝堂の空気が一気に冷えこむ。
遠くで、鐘が一度だけ鳴った。
その音はまるで“告解”の始まりのように、四人の胸を震わせた。
ライネルは壁の影を見た。
そこに立つのは、援助者――白衣を着た男。
「あなた……まだ、ここにいたのか」
男はゆっくりと頷いた。
「アリバイを証明しにきたのです。ですが――証明すれば、私は別の事件の犯人として裁かれるでしょう」
「……わかっていたのか、最初から」マリーベルが言う。
男はうつむき、微笑んだ。
「真実を語るということは、常に“逆”を語ることです。
見る者と見られる者、罪と証明、救いと告白。
そのすべては、入れ替わる瞬間にしか見えない」
シルヴィアが肩をすくめた。
「おいおい、詩人みたいなこと言うじゃないの。けど……あたしたちの“成功”って、何なんだい?」
アリアが答えた。
「“誤認”を解くことよ。
でも、それは“誰かを告発する”ことじゃない。
“自分がどんな目で世界を見ていたか”を、知ることなの」
「つまり……」ライネルがゆっくりと言った。
「真実とは、敵を倒すことではなく、“誤解を受け入れる勇気”か」
アリアは静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、嫌な感情を反論するの。
“見誤った自分”を、責めるのではなく、赦すために」
礼拝堂の奥、崩れかけた祭壇の上に、一枚の紙が落ちていた。
数字が並んでいる。
しかし、その配列を逆から読むと――
浮かび上がる言葉はただひとつ。
「我、足跡を残さず。」
ライネルが紙を手に取ると、灰のように崩れた。
その灰が風に乗り、四人の顔をなぞる。
見えない誰かの視線のように。
あるいは、かつて“自分を誤認した男”の記憶のように。
シルヴィアが笑う。
「ねぇ、これって結局、誰の“遺産”だったんだろ?」
マリーベルは空を見上げた。
「たぶん、“真実を信じたい”って気持ちの遺産。
でも信じすぎれば、それは呪いになる」
アリアが静かに祈るように手を組む。
「呪いも祈りも、同じことよ。
見る者と見られる者が、いつか一つになるための、ささやかな誤認」
そのとき、礼拝堂の外から、朝日が差しこんだ。
長い夜が、ようやく終わる。
逆転した影が、ゆっくりと正しい向きに戻っていく。
シルヴィアが眩しそうに目を細めた。
「さて。依頼は完了、ってことでいい?」
ライネルがうなずいた。
「いいだろう。真実は誰の手にも残らなかったが……“足跡”だけは、確かにここにあった」
マリーベルが微笑む。
「でも、それももう風に消えたわ。――いい終わりね」
その瞬間、彼らの足元に残っていた灰の輪が、風に散った。
灰の中に、かすかに数字が並ぶ。
「2 → 1」
――見る者から、見られる者へ。
それはまるで、世界そのものが逆に息をしているような、静かな反転の証だった。




