第0235話 誤認を照らし返す鏡
夜が、逆さまに沈んでいくようだった。
四葉亭の窓の外で、雨がゆっくりと世界の輪郭を溶かしていく。
その雨音に混じって、マリーベルの声が落ちる。
「ライネル、私たち……本当に正しい側に立っているのか?」
暖炉の火は、彼女の横顔を赤く染めていた。
「数字を読み解き、“誤認の男”を追う。けど、そのたびに鏡の中の像が変わる気がするのよ」
シルヴィアが肘をつき、ワインを回した。
「それが探偵の宿命ってやつさ。けど……今回は違う。私たちの方が“誤認されてる”」
アリアが小さく頷いた。「警部の報告書に、“四葉亭が組織に協力していた疑い”と書かれていました」
「は?」マリーベルが立ち上がる。「ふざけてるの? 私たちが? 潜入の邪魔をしたどころか、真実を明らかにしようとしているのに!」
だがライネルは静かに言った。「落ち着け。おそらく、これは“誰かが俺たちを誤認させるための仕掛け”だ」
彼の指が、テーブルの上の封筒を軽く叩いた。
封筒の中には、街の警備隊が発行した召喚状。
――《四葉亭の一行は、遺言書偽造に関与した疑いあり》。
「つまり、俺たちはもう“探偵”じゃなく、“容疑者”だ」
シルヴィアの笑みが凍った。
「……ひねりすぎて笑えないわね」
***
翌朝。
街の中央にある塔の上層階――司法塔。
四人はそこに呼び出された。
石壁に囲まれた灰色の部屋。
そこにはアーヴィング警部と、その背後に立つ金髪の法務官、そして──エレーヌの姿があった。
彼女は沈んだ目でこちらを見た。
「どういうつもりだ、エレーヌ」マリーベルが低く問う。
「あなたたちが“真実”を探すたび、誰かが消えるの。
昨日も、遺言の筆跡を調べていた書記官が……」
「殺された?」アリアの声が震えた。
エレーヌは黙って頷いた。
アーヴィングが言う。「それが“君たちのせいだ”という通報があった」
「誰の通報だ」ライネルが尋ねる。
「“アレクサンドル本人を見た”という者からだ」
空気が凍った。
死者が生きている? あるいは──誰かが“アレクサンドルになりすまして”いる?
「……まさか」マリーベルが口元を押さえる。「あの誤認の男が、まだ生きてるってこと?」
シルヴィアが薄く笑う。「あるいは、“誤認する力”そのものが伝染してるのかもね」
アリアが祈るように両手を組む。「真実と虚偽の境が、神の領域にまで届いてしまったのかもしれません……」
***
その夜、四葉亭に戻った彼らを待っていたのは、冷たい風と一通の手紙だった。
封には“逆さ文字”でこう書かれていた。
《足跡を追うな》
ライネルは眉をひそめる。
「“逆・密会の折の足跡”……これが、奴の次の狙いか」
「つまり、“足跡”を残すこと自体が罠になってる?」シルヴィアが机を叩いた。
マリーベルが指を鳴らすと、炎の魔法が小さく灯った。
「足跡ってのは、“真実への証拠”でもある。……それを逆に使えば、“真実を仕立てるための偽装”になる」
「つまり、証拠そのものが虚構だと?」ライネルが言う。
アリアが震える声で言った。「真実を暴こうとするたび、私たちが“虚構の一部”になっていく……」
沈黙。
それは四人の間に深く沈んだまま、夜を引き裂くように続いた。
やがて、シルヴィアが立ち上がる。
「ねぇ、もしこの街全体が“誤認の舞台”だとしたら?」
「どういう意味だ?」ライネルが眉を上げる。
「警部の潜入も、エレーヌの依頼も、遺言も全部、“誰かが作った逆転劇”かもしれないのよ。
そして私たちは、最初から“見られている側”だった」
マリーベルが炎を握りつぶした。「ふざけんな。そんな劇に付き合えるか」
アリアの瞳が潤む。「けれど……その“見る者”とは、もしかして──」
ライネルは静かに口を開く。
「俺たち自身、かもしれねぇ」
その瞬間、外で鐘が鳴った。
雨が止み、街が一斉に沈黙した。
窓の外に、人影が立っている。
それは──アレクサンドル。
死んだはずの男が、霧の中でこちらを見つめていた。
その足元には、濡れた足跡が続いている。だが、その足跡は途中で“逆向き”になっていた。
「……逆の足跡」アリアが息を呑む。
「進んでいるようで、戻っている」
「つまり、過去そのものが“逆再生”されてるんだ」マリーベルの声が震えた。
そのとき、外の男が口を開いた。
「真実を探すな。誤認の中に、救いがある」
彼の声は確かにアレクサンドルのものだった。
だが、ライネルの目には、それが“エレーヌの声”にも聞こえた。
「……まさか」ライネルは唇を噛む。「誤認の男とエレーヌは──同一人物?」
「他人を見て『これは自分だ』と誤認した男」
「そして、夫を見て『これが私だ』と思い込んだ女」
──真実が重なり、裏返った。
窓を開けた瞬間、風がすべてを吹き消した。
足跡も、影も、言葉さえも。
残ったのは、冷たい石畳に刻まれた“逆向きの数列”。
8359。
それが意味するものは、まだ誰にもわからなかった。
けれどその瞬間、四人は確信していた。
「真実とは、誤認を照らす光ではなく、誤認を照らし返す鏡だ」と。
そして、その鏡の向こうで、何かが“こちら”を見ていた。




