第0234話 噂された女
霧の都の夜は、いつも石畳に音を吸い取られている。
四葉亭の扉が軋むたび、外気が小さく嘆くように鳴いた。
その夜、女は再び現れた。
──エレーヌ。
彼女はかつて「余命いくばくもない富豪の遺産を狙う」と噂された女。だが、今夜はその眼差しに、何か違う色が宿っていた。
カウンターの奥で、土の騎士ライネルは腕を組み、酒の影に沈んでいる。
風の盗賊シルヴィアはグラスを指で回しながら、笑っていない口元で口笛を吹いた。
火の魔法使いマリーベルは暖炉の前に立ち、煙草をくゆらせていた。
そして水の僧侶アリアは、彼女たちのやりとりを悲しげな瞳で見守っていた。
「──あんた、また来たのかい。前回の依頼、金の話はまだ終わってなかったろ」
シルヴィアが笑みを含んだ声で言った。
「お金じゃないの。今回は“数字”を探してほしいの」
エレーヌの声は静かだった。だが、その静けさの奥に、凍えるような焦燥があった。
「数字?」
ライネルが低く唸る。「この国の数字は税金か墓碑銘にしか使わねぇ。何を探せと?」
「夫の遺言書に、数字の暗号があったの。けれど──それが遺産の鍵じゃない気がするの」
「どういう意味だ?」マリーベルが眉をひそめた。
「私、夫の死を見たの。でも、遺言にある“日付”が、その日より後の日なのよ」
沈黙。
四人は互いに顔を見合わせた。
──死後に書かれた遺言。
それは、この街のどの墓守でさえも信じはしない類の話だった。
アリアがそっと問う。「エレーヌさん、その日付……誰が書いたと?」
「わからない。けれど、夫が死んだ夜、部屋の扉の下に一枚の紙が差し込まれていたの。そこには、見覚えのある筆跡で“8-3-5-9”と……それだけ。」
シルヴィアが短く笑った。「それが“数字による暗号”ってわけか。だが、そんなの街中の賭場でも見られる代物さ」
「でも、それが遺書に書き足されていたの。法務官も『筆跡は確かに夫のもの』と言ったわ」
マリーベルが椅子を蹴って立ち上がる。「死者が文字を書く? 笑わせないで」
「けど……それが真実なら、“死後の遺言”がこの街を動かしてるってことになる」
ライネルの声は重く響いた。
「つまり──この件、真実を探ること自体が、何かを壊す可能性がある」
エレーヌの手が震えた。
「お願い。あの数字が意味するものを、確かめてほしいの」
アリアが頷いた。「わかりました。私たち《四葉亭の探偵団》が、お引き受けします」
その声は、教会の鐘のように静かで、そして取り返しのつかない響きを持っていた。
――
翌日、四人は街の北部、富豪アレクサンドルの屋敷跡を訪れた。
焼け落ちた壁の一部に、煤けた数字が浮かんでいる。
「8」「3」「5」「9」──
マリーベルが炎を灯すと、煤が剥がれ、そこに奇妙な文字が浮かび上がった。
「“E=M”……?」
「まるで“別人”を示しているみたいだな」
ライネルが低く呟いた。「夫が死んだあと、“誰かが夫のふりをして”遺言を書いた……そう考えた方が自然だ」
だがその瞬間、背後の廊下で足音がした。
「──動くな。ここは警察の管轄だ」
現れたのは、黒い外套に紋章をつけた男。
「……アーヴィング警部」アリアが息をのむ。
「きみたち四葉亭の者たちが、この件に関わっていると聞いた。だがな、これは潜入捜査中の案件だ」
「潜入?」シルヴィアがにやりと笑う。「探偵が犯罪組織のふりでもしてるのかい?」
アーヴィングは睨んだ。「その通りだ。合言葉を使って組織に入り込んでいる。だが──」
彼の視線が、エレーヌに向かう。
「その女が“合言葉”を漏らした。おかげで潜入がバレた」
空気が凍った。
マリーベルの炎が揺らぎ、アリアが息を止め、シルヴィアの口笛が途切れた。
エレーヌの唇が、わずかに震える。
「……そんな、知らなかったのよ……」
ライネルが一歩前に出た。「警部、あんたの部下が仕込んだ“証拠”ってやつ、もう一度見せてもらえねぇか」
「何のつもりだ?」
「誤認の確認だ」
低く言い放つと、ライネルは机の上の文書を取り上げた。そこに刻まれた署名は、確かに“アレクサンドル”。
だが、日付の筆跡だけがわずかに違う。
──それは鏡に映したように、左右が反転していた。
「これは、左手で書かれた文字だ」
ライネルの声が静まり返った屋敷に響いた。
「つまり、“夫ではない誰か”が、夫を模して遺言を偽造した。そして、エレーヌを罪人に見せかけるよう仕組んだ」
沈黙のあと、アーヴィングが低く唸る。「……誰が、そんなことを?」
「その答えは、“数字”が示している。8-3-5-9──鏡文字の順に並べ直すと、“9538”。
それを文字に変えると、“IEHE”。……“He is I”──“彼は私だ”」
マリーベルが息を呑んだ。「つまり、“他人を見てこれは自分だと誤認した男”が、すべての元凶……?」
ライネルが頷く。「そうだ。誤認が真実を作り、真実が誤認を裏付ける」
──彼らの背後で、風が窓を叩いた。
その音がまるで、数字の並びのように、一定のリズムを刻んでいた。
アリアはそっと祈りの言葉を口にする。
「真実を知ることが、必ずしも救いではない……。けれど、知らぬままでは、誰も救われない」
ライネルはゆっくりと目を閉じた。
「真実ってやつは、鏡みたいなもんだな。覗き込んだ瞬間、自分の醜さが先に映る」
その夜、四葉亭に戻った彼らを迎えたのは、いつもの暖炉の灯だった。
しかし、炎の明かりの奥に、まだ“数字”の影が蠢いていた。
──「誤認と逆転の真実」。
その名の通り、彼らの調査は、真実の“逆側”を暴き始めていたのだった。




