第0232話 エルミナ・ド・ラフレーヌ
霧が降りていた。
港町の夜は、いつも湿っている。
潮と煤煙の匂いが混ざりあい、街灯の炎は濁った金色に震えていた。
その霧の中を、女が一人歩いていた。
黒いヴェールを深くかぶり、裾の長い外套が石畳を舐めていく。
彼女の歩みには迷いがなかった――まるで、ずっと前からこの道を知っていたように。
名はエルミナ・ド・ラフレーヌ。
かつて貴族の令嬢として社交界を賑わせたが、いまは噂の女。
──「死にかけの老貴族の遺産を狙う、毒の花」。
街の人々はそう呼んだ。
彼女の目的地は、港の裏通りにある小さな酒場、《四葉亭》。
その扉の上には、四つ葉の紋章が彫られていた。
酒場であり、同時に探偵団の事務所でもある――奇妙な者たちが、依頼と代行を請け負う場所だ。
中に入ると、柔らかな暖炉の光と低いざわめきが迎えた。
奥のテーブルには、四人の影。
彼らが《四葉亭》の主――“四つの属性を持つ探偵団”。
まず、頑健な鎧の男。
土属性の騎士ライネル。
寡黙で、いつも眉間に皺を寄せている。
彼はグラスを手に、灰色の瞳でエルミナを測った。
隣で足を投げ出しているのは、風属性の盗賊シルヴィア。
金髪を揺らしながら、笑いを隠そうともしない。
「おや、噂の女神様がご来店かい。男を三人殺したって話、あれ本当?」
軽薄な声に、エルミナは微笑で返す。「三人目はまだ息をしていたわ」
赤髪を束ねた火属性の魔法使いマリーベルが、煙草の煙を吐く。
「くだらない茶番はやめて。依頼の話でしょ? 金なら先払いで」
最後に、静かに水差しを置いたのが水属性の僧侶アリア。
白い修道服の裾が、まるで波のように揺れる。
彼女は寂しげな微笑を浮かべて、言った。
「夜に訪れる人は、たいてい“真実を見たい”か、“嘘を守りたい”人です」
エルミナはその言葉に目を細めた。
「では、わたくしはどちらに見えます?」
アリアは少し考え、静かに答えた。
「どちらでもない。“自分を見失った人”に見えます」
エルミナは小さく笑い、懐から封筒を取り出した。
封蝋には、“蛇が自らの尾を喰う”印章。
「亡きヴァルター卿の遺言状よ。内容を調べてほしいの」
ライネルがそれを受け取ると、眉をひそめた。
「封が切られているな」
「執事が既に一度開けたの。だが、誰も中身の意味がわからなかった」
マリーベルが封筒を裂き、紙を広げた。
そこには、文字ではなく数字の羅列が並んでいた。
> 3142159
沈黙が落ちた。
それは座標のようでもあり、暗号のようでもあった。
シルヴィアが鼻で笑う。
「宝探しか。まあ、老人の遺言なんてそんなもんさ」
だが、アリアが小さく首を振った。
「数字は祈りにもなるの。信仰者は“数”で神を語ることがあるわ。……これは、何かを数えている」
「何を?」とライネルが問う。
アリアは指で紙面をなぞりながら言った。
「足跡。あるいは、“人の順序”。」
その夜、四葉亭の外はますます霧が深くなっていた。
エルミナは帰り際、扉の前でふと振り返った。
暖炉の光の中に浮かぶ四人の姿が、どこか奇妙に歪んで見えた。
「あなたたち……本当に真実を暴くつもりなの?」
ライネルが静かに答えた。
「俺たちは、“嫌な感情”の根を掘り返す仕事だ。それが真実でも虚構でも、地の底に埋まっていようと掘る」
エルミナは小さく息を呑んだ。
その言葉に、なぜか“寒気”を覚えた。
――自分が掘られる側になる、そんな予感。
翌朝。
ライネルたちは調査を始めた。
まず、ヴァルター卿の屋敷。
重厚な門をくぐると、庭の石畳に奇妙な足跡の痕跡が残っていた。
霧の夜に誰かが歩いた形跡――だが、その向きが逆だった。
「……後ろ向きに歩いたのか?」ライネルが呟く。
マリーベルはしゃがみ込み、土を指でなぞった。
「靴跡が浅い。意図的に“逆向き”に残したのよ」
「つまり、誰かが“自分じゃない誰かの足跡”を演じたってことか」
シルヴィアの言葉に、アリアが静かに頷く。
「真実を残すために、嘘を踏んだのね。」
門の奥で、執事アランが現れた。
銀髪を整え、表情に一切の感情がない。
「あなた方が探偵団ですか。ご主人の遺志を、どうか……」
ライネルは冷ややかに問う。
「依頼の詳細を」
アランは少し間を置いて答えた。
「旦那様は亡くなる直前に、こうおっしゃいました。
“真実は数字に宿る。だが、数字を見た者は己を見失う”と。」
その言葉に、アリアの瞳が揺れた。
「己を見失う……それは、誤認の始まりね。」
その夜、四葉亭に戻ったライネルたちは、暖炉を囲んで数字を見つめた。
「3、1、4、2、1、5、9……何を示してると思う?」
シルヴィアが酒を煽りながら言った。
「簡単だろ。人の順番、つまり座席だ。晩餐会のね。ほら、卿は毎晩七人で食事をしたらしい」
「だとしたら、この順番は……?」
「視線の流れよ」アリアが呟いた。
「人は、座る位置で“誰を見つめるか”が決まる。数字は、“誰が誰を見ていたか”を記しているの」
マリーベルは火を灯した蝋燭を指で弾いた。
「なら、遺産は視線の先にあるってわけね」
ライネルは唸るように言った。
「視線……か。つまり、見る者と見られる者が入れ替わる可能性がある」
そのとき、外で風が鳴った。
誰かが通りを歩く足音。
それは、石畳を逆向きに進んでいく音だった。
霧がまた深くなり、港の鐘が鳴った。
エルミナは遠くの窓辺に立ち、街を見下ろしていた。
指先で数字をなぞるように、唇が動く。
> 「3、1、4、2、1、5、9……」
それはまるで、祈りの呪文。
彼女は静かに笑った。
「真実なんて、見た人の数だけあるもの……」
けれど、その背後にはもう一人の影がいた。
霧の中で、彼女の姿を見ている“誰か”。
その視線こそが、数字の一つだった。
その夜の記録を、後にライネルは日誌に記す。
> ――真実を見ようとする衝動ほど、嫌な感情はない。
> なぜなら、真実はいつも、己の虚構を映す鏡だからだ。




