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第0231話 温かい灰を残す

 雨が降っていた。

 街の石畳がしっとりと濡れ、店の軒先からは雫がしたたり落ちる。

 あの丘の霧の日から、ひと月が経っていた。


 酒場「四葉亭」の扉を押すと、心地よい暖炉の音が迎えてくれる。

 香ばしい麦酒の匂い、木の椅子の軋み、誰かの笑い声――

 それらすべてが、事件の終わりを穏やかに包んでいた。


 カウンターの奥、ライネルは黙ってグラスを磨いていた。

 あの暗く寡黙な土属性の騎士が、今では少しだけ柔らかい表情をしている。

 彼の動きの中に、わずかに“祈り”のような静けさがあった。


 「ねえ、ライネル。」

 カウンターの向こうで、風の盗賊シルヴィアが足をぶらつかせている。

 「結局、あの“生霊”って何だったの? 幽霊っていうより、未練の気配って感じだったけど。」


 ライネルは手を止めずに答えた。

 「未練もまた、生きる力の一つだ。……嫌な感情と同じようにな。」


 「ふーん。」

 シルヴィアは唇を尖らせ、ジョッキを傾けた。

 「じゃあ、あたしの“苛立ち”も、生きる力ってこと?」

 「そうだ。」

 ライネルは淡々とした声で言う。

 「人は、怒りながら前に進む。悲しみながら、誰かを想う。……嫌な感情を消すんじゃなく、使うことができれば、それは祝福になる。」


 その言葉に、マリーベルがふっと笑った。

 彼女は暖炉のそばで杖を立てかけ、炎を見つめていた。

 「……あなたにしては詩的ね。前は“怒りは剣の錆”とか言ってたくせに。」


 「変わったのよ、少しだけ。」

 アリアが静かに言う。

 窓辺に座るその姿は、雨に濡れる光のように柔らかい。

 「“赦す”って、難しいけど、誰かを救う魔法なのね。あのとき、丘で見た彼女の笑顔――あれが、その証。」


 店内が静かになった。

 誰もが思い出していた。

 霧の中に現れ、風のように消えた“生霊”の微笑みを。


 「結局、犯人も被害者も、善も悪も、みんな混ざってるのね。」

 シルヴィアが言う。

 「人の心って、いろんな色がごっちゃになって、でもそれで綺麗になってる。」


 「混ざることを恐れるから、人は争う。」

 ライネルが応えた。

 「清らかであることより、混ざっても生き続けることが尊いんだ。」


 マリーベルが炎の揺らめきに指先を伸ばす。

 「ねえ、そういうの……まるで“火の性質”に似てる。燃やすことで、形を変えて、また光になる。」

 「水も同じよ。」アリアが微笑む。

 「いったん濁っても、静かに流れれば澄んでいく。」


 「風もそう。吹き荒れたあと、空が晴れる。」シルヴィアが笑う。

 そして、全員がライネルを見た。

 「で、土は?」


 ライネルは少し考え、言った。

 「……雨を吸って、芽を出す。」

 その一言に、三人は一斉に笑った。


 笑い声が暖炉の火を揺らし、外の雨音と混ざった。

 まるで世界そのものが、ひとつの旋律になったかのように。


 ――そのとき。

 扉が静かに開いた。

 冷たい風とともに、一枚の白い羽が舞い込む。

 銀に光るその羽は、あの“生霊”の残した聖印の欠片と同じだった。


 アリアがそっと拾い上げ、掌の上に置く。

 「……彼女の、贈り物ね。」

 「祝福、かもしれないな。」ライネルが呟く。


 シルヴィアがにやりと笑う。

 「祝福ってやつは、静かすぎて気味悪いけどね。」

 マリーベルが肩をすくめる。

 「でも、たまには悪くない。火だって、燃え尽きた後は温かい灰を残すんだから。」


 その会話のあと、ライネルはカウンター越しに外を見た。

 雨が止み、雲の切れ間から、朝の光が差していた。

 その光は羽に反射し、店内の壁を淡く照らす。


 「……終わりじゃないな。」

 彼は低く言った。

 「嫌な感情は、終わらない。だが、それでいい。終わらないものだけが、生きている証だ。」


 アリアが微笑む。

 「生霊も、祈りも、みんな“途中”なのね。」

 「そう。」ライネルが頷く。

 「終わらない物語こそ、俺たちが追う真実だ。」


 その言葉を最後に、暖炉の炎がひときわ強く燃えた。

 火の粉が空気を舞い、銀の羽がゆっくりと溶けるように消えた。


 ――それは、まるで祝福の儀式のようだった。


 外では、街の鐘が鳴っている。

 朝の光が「四葉亭」の看板を照らし、その文字を輝かせた。

 《Fourleaf》――四つの葉は、それぞれの属性を象徴しながら、一枚の幸福の印として揺れている。


 ライネルは目を閉じた。

 土の香り、風の笑い、火の余熱、水の祈り。

 それらが混ざり合い、やがて静かな心地よさへと変わっていく。


 嫌な感情は、消えなかった。

 だが、その存在を、誰も否定しなかった。


 むしろ――

 それこそが、この世界を動かす“生きた力”なのだと、

 彼らはようやく理解していた。


 そして、「四葉亭」には、今日もまた新たな依頼人が訪れる。

 扉の鈴が鳴り、静かな声がする。

 「探偵を、お願いしたいんです。」


 ライネルは顔を上げ、仲間たちに視線を送った。

 マリーベルが炎を灯し、シルヴィアが短剣を回し、アリアが祈りの詩を口ずさむ。


 ――物語は、また始まる。


 その始まりを祝福するように、

 “嫌な感情”が、彼らの胸の奥で、温かく息づいていた。

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