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第0230話 意図せぬ因果の鎖

 夜明けの光が、廃墟の石壁を白く照らしていた。

 戦いの余熱も、霧のように消えつつある。

 焦げた草の匂いのなかで、ライネルはただ一人、跪いていた。


 指先で石を撫でる。

 そこには血も灰もない。ただ、掌の形をした浅い凹みだけが残っていた。


 「――“巨人の足跡”ではなく、“人の手跡”だった。」

 彼は呟いた。

 「犯人は、この場所で、犠牲者を殺そうとしたのではない。逆だ。落石から庇おうとして、押さえつけるような形になった。目撃者が“殴っている”と錯覚したのだ。」


 マリーベルが腕を組み、炎色の髪を払った。

 「でも、それじゃあ、あの老人の証言は――」

 「意図せぬ錯覚だ。」

 ライネルは静かに続ける。

 「善意と信仰のあまり、目に映った出来事を“悪”に見立ててしまった。……彼は自分の信じる神に逆らう形を、無意識に避けたんだ。」


 「つまり、神が奇跡を起こしたんじゃなくて、人が錯覚を起こしたのね。」

 シルヴィアが肩をすくめる。

 「信仰って、便利な霧ね。見たくないものを全部包んでくれる。」


 アリアはゆっくりと首を振った。

 「でも……その霧のなかに、祈りもあった。愚かだけど、優しい祈りが。」

 彼女の指先には、割れた銀の聖印が握られていた。

 「彼は、自分の罪を認められなかっただけ。救おうとしたのに、殺してしまったことを。」


 ライネルは短く息を吐き、立ち上がった。

 「そして、俺たちは今、その“愚かな善意”の果てに立っている。だが――ここからが“探偵”の仕事だ。」


 彼は剣を鞘に戻し、ドルグの方へと向き直る。


 探偵ドルグは、黒い外套の裾を翻しながら、微笑していた。

 「さすがだ、ライネル。まるで悪魔のような推理だな。」

 「悪魔ではなく、理性だ。」

 「同じことだよ。真実は常に、信仰に背く。」

 ドルグは杖の先で地を突きながら、霧の名残を見上げた。

 「……だが、君の推理には穴がある。もし本当に“庇おうとした”のなら、なぜその後、彼は逃げた? なぜ自分から罪を名乗らなかった?」


 ライネルの目が静かに光った。

 「――それが、“逆・悪魔の契約”だ。」


 その名を口にした瞬間、周囲の空気がわずかに震えた。

 マリーベルの炎が小さく揺らぐ。


 「悪魔が人間の望みを叶える代わりに、魂を奪う――その“逆”だ。」

 ライネルの声は低く、重い。

 「彼は、愛する者の魂を救うために、自分の罪を悪魔に差し出した。つまり、罪を“神の奇跡”として誤認させることで、罪人ではなく“聖者”として彼女を残したんだ。」


 シルヴィアが目を見張った。

 「……自分を悪者にして、相手を救ったってこと?」

 「そうだ。だが、結果として彼は信仰の矛盾に引き裂かれ、狂信者たちが生まれた。これが“意図せぬ因果の連鎖”だ。」


 ドルグが唇の端を上げた。

 「見事だ。だが、そんな解釈を民に示したら、神殿は崩壊するぞ。」

 「崩壊しない真実など、存在しない。」

 ライネルの声には冷たい静けさがあった。


 ――そのとき。

 丘の上の風が止まり、アリアが息を呑む。


 「……誰かが、いる。」


 振り向くと、そこに“彼女”がいた。

 亡き犠牲者――白い衣の裾を風に揺らし、淡い光の中に立っている。

 その姿は、幻か、あるいは――生霊。


 「あなた……」アリアが震える声で言った。

 女の唇が、微かに動いた。

 「……彼を、責めないで。」


 その声は風のようだった。

 優しく、悲しく、確かにそこにあった。


 マリーベルが杖を下げ、炎を消す。

 「……やっぱりね。罪は罪として、でも愛は残る。」

 シルヴィアが静かに笑う。

 「理屈も信仰も吹き飛ぶわけだ。――これが“真実の証人”か。」


 ライネルは一歩、前に出た。

 「……あなたが望んだことは、誰かの赦しだったのか?」

 生霊はただ微笑み、霧の中へ消えた。

 残ったのは、ひとひらの銀色の羽――聖印の欠片だった。


 アリアはそれを拾い、祈るように胸に抱いた。

 「“嫌な感情”は、憎しみの芽じゃなく、赦しの入口なのね。」


 ライネルは短く頷いた。

 「そうだ。怒りや誤解を否定するんじゃない。それらが“何かを守ろうとする心”から生まれたなら、そこに反論ではなく理解を向けるべきだ。」


 シルヴィアが笑って肩をすくめる。

 「へぇ、ライネルがそんな哲学語るなんて、明日は雪でも降る?」

 マリーベルが頬を染めて、ふっと笑った。

 「でも……そうね。怒りに立ち止まるって、案外、勇気いるもの。」

 アリアが囁く。

 「立ち止まることこそ、“反論”なんだわ。」


 そのとき、ドルグが帽子を取った。

 「――完敗だ。君たちは、“嫌な感情”を武器にしなかった。見事だよ。」

 そして、微笑む。

 「だが、覚えておけ。真実を語る者は、いつだって孤独だ。」


 ライネルは静かに応えた。

 「孤独でも、立ち止まらない。俺たちは“愚かな証言”の続きを書き換える。」


 丘の上に朝日が昇り、霧の帳が完全に消えた。

 鳥が鳴き、遠くで鐘が響く。


 ――その音は、まるで祈りのように、澄んでいた。


 こうして、意図せぬ因果の鎖は断ち切られた。

 だが、その鎖の欠片は、静かにどこかへと流れていく。

 四葉亭へ帰る途中、ライネルは誰にも聞こえない声で呟いた。


 「……“生霊”は、まだ終わっていない。」

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