第0229話 石の影に戻る
夜の帳がまだ完全には明けきらぬころ、霧は街の屋根の上で溶け合い、鐘楼の影だけがぼんやりと輪郭を持っていた。
「四葉亭」の灯も消え、扉の外には、冷たい風が吹きつける。
ライネルたちは、その霧のなかを歩いていた。
目指すは街外れ、古い城の跡――犯行が起きたとされる“巨人の足跡”があるという丘だ。
「なあ、ライネル。」
軽い声が霧を裂く。シルヴィアがマントを翻し、銀の短剣をくるりと回す。
「ほんとにこんな時間に行く必要あったの? あたし、朝ごはん派なんだけど。」
「俺は飯よりも、まず確かめたい。」
ライネルの声は、石のように低かった。
「――あの“目撃者”の証言に、何かが嘘だと感じる。」
「嘘って……あの老司祭のこと? 犯人が祈ってたから、殺せるはずがないって言ってたあれ?」
マリーベルが火を灯した杖を掲げ、霧の向こうを照らす。赤い炎が瞬き、彼女の瞳にも苛立ちが燃えていた。
「見た目は善人、言葉も正しい。でも、証言ってのは案外、善意ほど信用できないのよ。」
「善意は、時に最悪の毒だ。」ライネルが短く答えた。
アリアは黙っていた。
彼女の手には、亡き犠牲者の形見――欠けた銀の聖印。
それを指で撫でながら、彼女は囁く。
「神は……ほんとうに、見ておられるのかしら。」
誰も答えなかった。
代わりに、丘の上の廃城がゆっくりと霧の中に姿を現した。
黒い石壁が崩れかけ、そこに大きな凹みが――まるで巨人の足跡のように――残されている。
マリーベルが呟く。
「“逆・巨人の足跡”って……このこと?」
「いや、違う。」ライネルは跪き、地面を指でなぞる。
「巨人の足跡に見えるのは錯覚だ。石壁の崩れ方が偶然そう見えるだけ。だが……問題は、なぜ“巨人の足跡”だと皆が信じたのか、だ。」
シルヴィアが首をかしげる。
「つまり、“信じた”こと自体が、仕組まれてた?」
「そうだ。誰かが“見間違い”を誘導した。――目撃者の愚かな錯覚は、意図せぬ誰かのアリバイを成立させた。」
その瞬間、丘の下から足音が聞こえた。
影が一つ、霧の中から現れる。
「……やはり、君たちもここに来たか。」
探偵ドルグだった。黒いコートの裾を翻し、霧の中をゆっくりと登ってくる。
「“四葉亭”の探偵団は、噂よりもせっかちだな。」
「せっかちじゃなくて、仕事熱心って言ってほしいわね。」シルヴィアが笑う。
だがその笑いは、微妙に張りつめていた。
ドルグはライネルの前に立ち、低く囁く。
「ライネル、君の推理は危うい。あの目撃者の証言を否定すれば、彼の信仰そのものを否定することになる。街は混乱するぞ。」
「それでも、俺は立ち止まらない。」
ライネルは一歩も引かない。
「真実が混乱を生むなら、それこそが俺たちの戦う理由だ。」
風が吹いた。
霧が裂け、足元の“巨人の足跡”に朝の光が差し込む。
その影の形は、確かに――人の手形のようでもあった。
「……これが、“逆”か。」アリアが震える声で言う。
「足跡じゃない。助けようとして、誰かが……押さえつけた跡。」
マリーベルの表情が強ばる。
「じゃあ、犯人は――犠牲者を殺そうとしたんじゃなく、救おうとした?」
「だが、その動きが“殺人”に見えた。証言した者たちには。」ライネルが低く続ける。
「すべては、善意の錯覚の連鎖だ。」
そのとき、銃声のような音がした。
丘の下から、誰かの叫び。
「――火をつけろ! やつらを止めろ!」
マリーベルが杖を構え、炎が爆ぜた。
「来たわね、“敵対者”のお出まし。」
霧の中から現れたのは、司祭の信徒たち。彼らは恐怖に駆られ、誰かに命じられたように松明を掲げている。
「異端者め! 神の奇跡を侮辱するな!」
ライネルは剣を抜いた。
「退け、俺たちは敵じゃない!」
だが、信徒たちは聞かない。錯覚と信仰と恐怖が混ざり合い、彼らの瞳には狂気が宿っていた。
「ライネル!」
アリアが叫び、彼の前に飛び出す。
水の障壁が生まれ、火の矢をはじく。
シルヴィアは背後を回り込み、敵の松明を切り落とす。
マリーベルは舌打ちしながら炎を操り、敵を脅すように周囲の霧を赤く染め上げた。
戦いというより、混乱だった。
誰もが「自分の正しさ」を信じ、誰もが「他者の悪」を見ていた。
――嫌な感情が、渦を巻く。
怒り、誤解、恐怖、そして正義。
それらが、世界を壊す音を立てていた。
やがて、ドルグの声が響いた。
「もうやめろ! お前たちは何をしている!」
彼は群衆の間に立ち、両腕を広げた。
「彼らは敵ではない! 真実を求めているだけだ!」
沈黙が落ちた。
その隙に、ライネルが低く呟いた。
「……これが“障害”だ。俺たちが立ち止まるべき場所。」
マリーベルが目を細める。
「立ち止まる? 今さら?」
「そうだ。嫌悪と怒りが燃え上がる前に、俺たちは一度……待たなければならない。」
ライネルの声は静かだった。
「真実にたどり着くためには、“嫌な感情”に待ったをかける必要がある。」
その言葉に、シルヴィアは短く笑った。
「珍しく詩的じゃない。土くさい男のくせに。」
アリアが涙ぐみながら微笑む。
「でも……それが、あなたの優しさなのね。」
朝の光が、霧の裂け目から差し込み、崩れた城壁を照らした。
錯覚は消え、巨人の足跡も、神の奇跡も、ただの石の影に戻る。
残ったのは、静かな呼吸だけ。
――そして、これから暴かれる“逆・悪魔の契約”の真相だった。




