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第0228話 議会書記トゥーリオ

 〈四葉亭〉の朝は、曇りガラス越しの光と、冷えたパンの匂いから始まる。

 シルヴィアはテーブルの上に片足を乗せ、手早くダガーの刃を研いでいた。

 マリーベルは火を起こしながら、煙草をくわえる。

 アリアは窓辺で祈り、ライネルはいつも通り、黙して杯を傾けている。


 その静寂を破ったのは、扉を叩く硬質な音だった。

 開けると、昨夜の雨の匂いとともに、一人の女が立っていた。


 ――クラウディア・ベルナール。

 亡き会計官の妹にして、この事件の依頼者である。

 白い外套を濡らしたまま、彼女は礼を失するほど深く頭を下げた。


 「兄は……兄は無実でした。あなた方だけが、それを証明できる」


 声が震えていた。

 その震えの裏にあるものが、悲しみなのか、怒りなのか、あるいは――もっと別の感情なのか、ライネルにはまだ見抜けなかった。


 「証言者たちの話を、直接聞きたいのです」

 クラウディアの瞳は鋭い。「彼らが“見た”という光景が、どうしても信じられません」


 シルヴィアが肩をすくめる。「信じたくないの間違いじゃない?」

 マリーベルが咎めるように睨む。「やめなさい」

 「だってそうでしょ? “見た”ものが真実じゃないのなら、何を信じりゃいいのさ」


 ライネルはゆっくりと立ち上がり、短く告げた。

 「俺たちが代わりに確かめよう。……あんたが信じられないなら、俺たちが“見に行く”」


 クラウディアはその言葉に、小さく息をついた。

 まるで、罪を分かち合う者を見つけたかのように。


 最初の証言者は、仕立屋の男フェルス。

 工房は石畳の裏通り、雨漏りのする屋根の下にあった。

 フェルスは指を震わせながらも、同じ話を繰り返した。


 「見たんです、確かに。あの貴族の部屋から、あの人が剣を持って出てくるのを。血にまみれて……」

 「“あの人”とは?」

 「――記録官のトゥーリオさまですよ」


 だが、トゥーリオにはアリバイがある。

 事件当時、彼は議会で文書の朗読をしていた。

 それを複数の証人が見ていた。


 「それでも見た、と言い張るのか?」

 「見たんです。間違いなく」


 ライネルは男の目を見た。

 恐怖と混乱、そして――どこか“催眠にかかったような硬さ”。

 アリアが手をかざし、静かに水の魔法を唱える。


 男の瞳が淡く光り、脳裏に浮かぶ残像が、彼女の心に流れ込む。

 ――雨。雷。赤い光。

 そして“巨人の足跡”のようなものが、床を揺らしていた。


 「……見たのは、トゥーリオじゃない」

 アリアは静かに言った。「誰かが“彼に見せた”の」


 「幻覚か」

 マリーベルが唇を噛む。「そんな魔法、普通は使えないわ」

 「普通じゃない。これは……逆転魔術だ」

 ライネルの低い声が響く。

 「視覚を通して他人の“恐怖”を写す術。だが、条件がある。――“信じたい嘘”でなければ成立しない」


 沈黙。

 シルヴィアが笑った。「つまり、フェルスは“トゥーリオが犯人であってほしい”と思ってたわけね」

 「そういうことになる」

 「人間ってやつは、嫌な感情に引きずられて、嘘を本物にしちまうのね」


 次に訪れたのは、老女の証言者リーネ。

 彼女は教会の傍で、花を売る仕事をしている。

 手は皺に覆われ、指先は土の香りに染まっていた。


 「その夜ね、見たのよ。窓の外に“影”が立ってた。まるで巨人みたいに大きくて、でも顔は人間。目が赤く光ってたの」

 「巨人の足跡……」

 アリアが息をのむ。

 「ええ、でも足跡なんてなかった。翌朝には消えてたのよ」


 ライネルは空を仰ぐ。「……錯覚の連鎖だ。見た者がまた別の“影”を作る」


 リーネが微笑む。「あの人、死んだのかしら?」

 「兄上のことですか?」

 「違うよ。あの“影”の中にいた人だよ。あれは、誰かを助けようとしてた」


 その言葉に、アリアの胸に痛みが走った。

 助けようとして――殺す?

 矛盾したその感情が、まるで“生霊”のように心にまとわりつく。


 〈四葉亭〉に戻ると、探偵ドルグがまたいた。

 「遅かったな。君たちの“代行調査”は、どこまで進んだ?」

 シルヴィアがうんざりした声を出す。「アンタ、また勝手に嗅ぎ回ってんの?」

 「嗅ぎ回るのが仕事でね。ところで、興味深い話を聞いたよ」

 ドルグは懐から封筒を取り出す。「目撃者の一人が、死亡した」


 「なんだと?」ライネルの声が低く震える。

 「昨夜、橋から転落したそうだ。偶然か、あるいは――罪悪感か」


 沈黙の中、アリアが小さく呟く。

 「罪悪感……。そう、彼らは“見た”ことに責任を感じている」

 「見た」という罪。

 “錯覚”でありながら、それを信じてしまった自分への罰。


 「嫌な感情、ってやつね」

 マリーベルが吐き捨てる。「見たくなかったのに、見てしまった。信じたくなかったのに、信じてしまった」

 「だが、その“嫌な感情”の中にこそ、鍵がある」

 ライネルが立ち上がる。「俺たちは錯覚の正体を暴く。依頼人の望みを果たすために」


 ドルグがくすりと笑う。「その望みが、誰かの“魂”を呼び覚ますとしても?」

 「構わん」

 「なるほど、君は相変わらずだ」


 その夜、アリアは祈りながら思った。

 ――錯覚の根にあるのは、恐れか、それとも希望か。

 見たくないものを見、見たいものを見失う人間の悲しさ。

 そして、どこかで誰かが“逆の契約”を交わしている気がしてならなかった。


 翌朝、彼らのもとに新たな報せが届く。

 “アリバイの証人”である議会書記トゥーリオが、消息を絶ったという。


 風が吹く。

 シルヴィアの髪が揺れる。

 ライネルが呟く。


 「次は、真実そのものが“逃げる”番か」

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