第0227話 “愚かな証言”
灰色の空の下、王都の裏路地にある〈四葉亭〉は、昼から沈黙していた。
扉を押すと、重い木の香と、昨夜の葡萄酒の残り香が鼻を打つ。
ライネルは鎧の埃を払いながら、無言でカウンターに腰を下ろした。
彼の眉間の皺は、外の雨よりも深かった。
「また、つまらん依頼を引き受けたのか?」
シルヴィアが椅子の背にもたれ、指先で銀のコインを弄んでいた。
風の女盗賊の笑みはいつも軽いが、目だけは鋭い。
「違う。……つまらんどころか、奇妙だ」
ライネルは低く言った。「目撃者が三人、だが全員、同じ間違いをしている」
カウンター奥で帳簿を閉じたマリーベルが顔を上げる。
赤い髪を結い上げた火の魔法使い。短気で情熱的な彼女は、事件の匂いには敏感だった。
「間違い? どんな?」
「誰もが“犯人を見た”と言う。だが、その時間、犯人は別の場所にいた。しかも、誰かがそのアリバイを証明している」
「つまり、目撃者たちの“錯覚”ってわけね」
「……愚かな錯覚だ。」
ライネルの声には、怒りとも憐れみともつかない陰があった。
彼が言う“愚かさ”とは、他人の誤りではなく、自身への苛立ちでもあった。
アリアが静かにグラスに水を注いだ。
水属性の僧侶であり、チームの中でももっとも穏やかな彼女は、低く祈るように呟く。
「誰かの誤解が、誰かを殺すこともある。だから、私たちは調べなければならないのね」
「依頼人は?」
シルヴィアがコインを止め、真顔になる。
「殺されたのは貴族の会計官。依頼に来たのはその妹、クラウディア。彼女は兄が冤罪で死んだと信じている」
「冤罪……つまり、犯人はまだ別にいる」
「いや、犯人は――アリバイによって守られたままだ」
マリーベルが立ち上がる。「いいじゃない、そういう歪んだ事件。燃えるわ」
ライネルはため息をつく。「燃やすな」
「冗談よ。でも……こういうときの“証言”って、怖いわね。人の目なんて、あてにならない」
外の雨音が強くなる。
アリアが窓越しに街を見た。「雨が、記憶を濁らせるのかもしれない」
――彼らは翌朝、現場へ向かった。
事件現場は〈黄金の秤〉と呼ばれる商館跡。すでに閉鎖され、板で打ち付けられた扉には、王都警邏隊の封印が残る。
シルヴィアが鍵を器用に抜き取る。
「ちょいと失礼」
木の扉が軋む。冷たい埃の匂いが流れ出す。
内部には、崩れた書類棚、割れたインク瓶、血の滲む床。
そして壁際には、事件の夜、誰もが“見た”という黒い影の痕跡が残っていた。
アリアが指でなぞる。「焦げてる……魔術の残留かも」
マリーベルがすぐに詠唱を始める。赤光が床を照らすと、焦げ跡が淡く揺れ、そこに“誰かの幻影”が映し出された。
――剣を振り下ろす男の影。
だが、その顔は曖昧で、輪郭が崩れている。
「これが“目撃された犯人”……?」
シルヴィアが眉をひそめる。「輪郭がぼけてる。これ、幻覚の投影じゃない?」
ライネルは無言で剣の柄に触れた。「いや、これは“誰かの錯覚の記録”だ」
「錯覚を記録?」マリーベルが驚く。「そんなこと、できるの?」
「人の恐怖や誤解は、魔力の波として残る。特に、強い感情があった場合はな」
アリアがうなずく。「まるで……感情がこの場所を縛ってるみたい」
風が吹き抜けた。
黒い影が揺れ、誰かの声が残響する。
――「あの人よ、間違いないの」
女の声。三人の証言者のひとりだ。
シルヴィアが口笛を吹いた。「これが“愚かな証言”の証拠ってわけね。まるで亡霊が嘘をついてるみたい」
「亡霊……」
ライネルは目を細める。「そうだ。まだこの事件には“生きている霊”がいる。生霊だ」
〈四葉亭〉に戻ると、そこには先客がいた。
茶色の外套をまとった男、探偵ドルグ。
冷徹な灰色の瞳が、ライネルたちを見据えている。
「おやおや。君たちもこの事件を?」
「ドルグ……またお前か」
マリーベルが不快そうに呟く。
ドルグは笑った。「目撃者三人。全員が同じ方向を指さした。それが間違いなら、何が真実だ?」
「錯覚だ。だが、それを誰が起こしたかは別の話だ」
「錯覚を操る者、というわけか。面白い」
彼の声には冷たい愉悦が混じっていた。
「ライネル、気をつけな。あいつ、また誰かを利用する気だ」
シルヴィアの囁きに、ライネルは短く頷いた。
「ドルグ、お前の目的は何だ?」
「真実だよ。ただし――人の“間違い”にこそ、それが宿る」
その言葉は、皮肉でもあり予言でもあった。
夜。
アリアは宿の部屋で、灯りを落としたまま祈っていた。
夢の中で、彼女は誰かの声を聞いた。
――「見たの。確かに見たの。血の剣を……」
女の声は震え、涙を含んでいた。
「でも……その顔を、覚えていないの」
目を覚ますと、額に冷たい汗。
アリアは呟いた。「この“錯覚”は……彼女たちの罪じゃない。何かが、見せている」
翌朝、ライネルたちは再び現場へ。
焼け焦げた床の下から、小さな銀の鏡が見つかった。
裏面には古い刻印――“契約”の印。
マリーベルが呟く。「これ、悪魔との契約印……でも、逆向きに刻まれてる」
「逆・契約……?」ライネルが目を細める。
それは“悪魔が人間の望みをかなえ、人間が魂を与える”という契約の反転。
つまり――
「人間が悪魔の望みを叶え、代わりに“悪魔の魂”をもらう契約……?」
アリアが青ざめた。「そんなこと、あり得ない……」
シルヴィアが低く笑う。「いや、だからこそ、あり得るのさ。この街じゃ」
事件の糸は、徐々に複雑に絡みはじめていた。
“愚かな証言”は、錯覚ではなく、意図された幻視かもしれない。
そしてその裏で、“誰かの魂”が、逆さまに動き出していた。
〈四葉亭〉の灯が揺れる。
ライネルはグラスの中の水を見つめながら、低く言った。
「俺たちは……愚かさの中に、真実を見ることになるのかもしれない」




