第0226話 〈巨人の足跡〉の噂
灰色の街に、夜が沈んでいた。
グラン=サレム――石畳が濡れた鏡のように、灯をぼやかしながら夜霧を抱く。鐘楼が三度鳴り、遠くで犬が吠える。その声が、まるで罪を告げる合図のように、酒場〈四葉亭〉の扉を震わせた。
ライネルは、いつもの席に腰を下ろしていた。
厚い外套の裾には泥。鉄の籠手には小さな欠け。
彼は黙ってエールを啜り、静かに杯の底を見つめる。
沈黙は彼にとって、祈りよりも確かな会話だった。
対面では、風の女盗賊シルヴィアが足を組んで笑っていた。
「ねえ、ライネル。暗い顔してると、酒がすっぱくなるよ」
「酒の味を気にして生き延びた盗賊など、見たことがない」
「見たことないから、あたしはまだ生きてるのさ」
その軽口に、火の魔法使いマリーベルがむっとする。
「またそうやって軽薄なこと言う。あんた、死をなめてるわ」
「なめてないよ、ちょっと噛んでるだけ」
「……ほんとに噛みつくわよ、あたしの炎で」
アリアは小さく笑って、二人の間に杯を差し出した。
「喧嘩するなら、乾杯のあとで。ね?」
彼女の声は、水面のさざめきのように柔らかい。
けれど、その笑みの裏には、どこか寂しげな影が宿っていた。
四人はいつもこうして夜を迎える。
戦場ではなく、謎を待つ場所としての〈四葉亭〉で。
扉が、静かに開いた。
灯りに浮かぶのは、深緑のドレスをまとった少女。
目は泣き腫らし、指先は冷え切っている。
「――お願いです。兄を助けてください」
少女の名はリゼット・ハイドリヒ。
地方の小領主の娘であり、彼女の兄ヴェルナーは、三日前――
恩師であった騎士団長ロルフ殺害の罪で、牢に繋がれた。
シルヴィアが眉をひそめる。
「また貴族絡み? あたしたち、呪われてるんじゃない?」
マリーベルが肩をすくめる。
「呪いは依頼金で祓えるわ」
「そういう問題じゃないわよ!」とシルヴィア。
ライネルは二人を制して、静かにリゼットへ目を向けた。
「君の兄を、殺人犯にしたのは誰の証言だ?」
「……宿屋の女将、ミリアです。彼女が“見た”と……。兄が剣を振り下ろすところを」
「それだけで、有罪の烙印が押されたのか」
「でも……」リゼットは唇を噛む。「証拠も、揃っているそうです。血痕、足跡、そして……あの“巨人の影”が」
〈巨人の影〉――
その言葉に、マリーベルが息をのんだ。
「また、それ……。あの“足跡”の噂、ほんとだったの?」
リゼットは頷く。
「ええ。現場の床に、人間の三倍はある足跡が刻まれていたんです。でも床は、割れていませんでした」
四人の間に、ひやりとした沈黙が降りた。
それは、霧よりも濃く、祈りよりも深い沈黙だった。
ライネルはゆっくり立ち上がる。
「……わかった。その依頼、受けよう」
アリアが小さく微笑む。
「理由を、聞いても?」
「錯覚の匂いがする。真実が自分を偽る時、人はもっとも愚かになる」
リゼットが涙を拭いながら頭を下げる。
「ありがとうございます……!」
そのとき、扉がもう一度開いた。
冷たい夜風が、彼らのランプを揺らす。
そこに立っていたのは、黒衣の男――
探偵ドルグであった。
「またお前たちか。〈四葉亭〉の連中は、いつも感情で動く」
彼は唇の端で笑う。
「この件はすでに俺が請けている。証拠は明白、動機もある。お前たちは詩でも書いていろ」
マリーベルの炎が、わずかに揺らめいた。
「詩はあんたみたいな冷血漢には理解できないわ」
ドルグの灰色の瞳が彼女を見据える。
「理解など不要だ。真実に温度はない」
ライネルはゆっくり歩み寄り、ドルグの肩をすれ違いざまに叩く。
「真実に温度がないなら、なぜその手は冷たい?」
「……何?」
「誰かの死に触れた手は、冷たくなる。だが冷たさを知らぬ者に、死の意味はわからない」
短い沈黙。
ドルグはわずかに目を伏せ、無言のまま扉を閉めて去った。
外は雨。冷たい雫が、まるで涙のように軒を叩く。
アリアが囁く。
「彼は、哀しみを知らないだけ……?」
ライネルは首を振る。
「いや。哀しみを、拒んでいるんだ。真実よりも。」
その夜、四葉亭の灯りは遅くまで消えなかった。
地図の上で、ライネルが指を滑らせる。
城塞の南――ロルフの館。
そこに描かれた印の周囲には、奇妙な円環。
それは、古代語で「契約」と刻まれた印章だった。
マリーベルが眉を寄せる。
「契約……悪魔の紋?」
ライネルは低く呟いた。
「おそらく、そうだ。
ロルフは“誰かを守る”ために契約を結んだ。
だがその守りは、誰かの死と引き換えだったかもしれない。」
アリアの指が震える。
「もし、それが本当なら……ヴェルナー様は……」
「罪ではなく、因果の罰を受けているだけかもしれん」
シルヴィアが椅子を蹴り立ち上がる。
「そんなの、バカげてる! 死んだ人の契約で、生きてる人が罰を受けるなんて!」
マリーベルは語った。
「世界はそんな理不尽でできてるのよ」
ライネルは返した。
「……理不尽こそ、真実の外殻だ」
外では雨がやまず、街の石畳を流れ落ちていく。
まるで誰かの錯覚を洗い流すように。
その夜、四葉亭にひとつの決意が生まれた。
――真実を暴くためではなく、
錯覚の向こうにある“願い”を見つけるために。
エールの残り香が、夜明けまで漂っていた。
そしてその香りの中で、
〈巨人の足跡〉の噂が、ひとり歩きを始める。




