第0224話 “魂の井戸”
光は、夢と現のあわいを溶かしこむように揺れていた。
崖下の洞窟に横たわるルシアンの身体は、半ば透明に透け、半ば血に染まっていた。
己が幻であると悟った者の静けさと、それでもなお生を望む者の執念が、その顔に共存していた。
――“あり得ぬことを、成す”
その言葉が、胸の奥にこだまする。
遠くで誰かの声がした。
「ルシアン! まだ終わっていない!」
土の騎士ライネルの叫びが、岩壁を震わせた。
続いて風の女盗賊シルヴィアの声が響く。
「自分を疑うな! 幻なら幻らしく、現実を裏切ってやりなさい!」
火の魔法使いマリーベルが、崖の上から炎を放った。
それは光の梯子となり、闇を焼き払いながら、ルシアンのもとへと降りてくる。
水の僧侶アリアは両手を組み、祈りの言葉を紡いでいた。
「神よ、幻をも現実に繋げ給え――この男の“怒り”を赦し、存在を祝福し給え」
四人の力が一つになる。
風が渦巻き、炎が走り、土が震え、水が光を編む。
その中心で、ルシアンはゆっくりと立ち上がった。
彼の足元には、“魂の井戸”が口を開けていた。
そこから伸びる無数の影が、かつて殺めた者、失った者、そして愛した者の姿をとる。
父の影。夫の影。
それらは優しく微笑み、こう告げた。
――「もう、憎まなくていい。」
ルシアンは、剣をゆっくりと地面に突き立てた。
「俺は……俺の罪も、幻も、全て背負って生きる。怒りに支配された自分に、もう従わない」
洞窟の光が、一瞬にして広がった。
“穴”は閉じ、死者たちは静かに昇天していく。
それは、天上界へ還る魂たちの行進だった。
◇
崖の上。
ルシアンが光の中から現れたとき、仲間たちは息を呑んだ。
彼の身体はもう完全に幻ではなく、しかし完全に人でもなかった。
皮膚は淡い光を帯び、目の奥には、怒りではなく静謐な意志が宿っている。
「……帰ってきたな」
ライネルの言葉に、ルシアンは微笑んだ。
「いや、まだ帰り道の途中だ」
シルヴィアが軽口を叩く。
「幻のくせに、顔色いいじゃない。死人にしては上等ね」
「死に損ないって言葉もある」マリーベルが笑った。「でもまあ、あんたが戻ってきたなら、世界もまだ終わらない」
アリアはそっとロザリオを握りしめ、頷いた。
「あなたが“怒り”を超えたこと――それ自体が、神への反論です」
ルシアンは四人を見渡した。
彼らはそれぞれ違う性質を持ちながらも、同じ“現実”を選び続けていた。
土は重さで支え、風は軽やかに流し、火は情熱で照らし、水はすべてを包む。
その調和の中で、幻もまた居場所を得た。
「俺は、あり得ぬ存在として生きる。
だが、それを恥じるつもりはない。
怒りが俺を動かしたのなら、今度は赦しが俺を生かす。」
風が吹き、雲が裂け、陽光が四葉亭の方角を照らした。
◇
数日後、四葉亭。
ルシアンは古い杯を手にしていた。
そこに、マリーベルの炎で温められた酒が注がれる。
「“あり得ぬことに、乾杯”ってとこね」シルヴィアが言った。
ライネルが黙って頷き、アリアが祈りの言葉を短く唱える。
「この世に幻があるのなら、それを幻だと認めてなお、生きていける強さが必要なんだな」
ルシアンが呟く。
「復讐も、怒りも、憎しみも――誰かの生の残響にすぎない。でも、俺はその残響を音楽に変えてみせる」
マリーベルが笑った。
「詩人みたいなこと言うじゃない。幻のくせに」
ルシアンは杯を掲げた。
「幻が詩を語るなら、それはもう現実だろう」
その瞬間、四葉亭の扉が開き、夕陽が差し込んだ。
光は彼らの顔を照らし、過去と未来の境界をぼやかす。
幻も、人も、赦されたように。
外では、春の風が吹いていた。
世界は、あり得ぬまま、確かに続いていた。




