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第0223話 “カールスの断崖

 翌朝、霧の都は、まるで誰かが夢の残滓を吐き出したように白く霞んでいた。

 四葉亭の看板が揺れるたび、鈴の音がかすかに鳴る。

 夜を越えた四人とルシアンは、もう一度、机を囲んでいた。

 だが、昨夜の軽口も、いつもの酒の匂いも、今日はまるで異国のもののように感じられた。


 「“幻の依頼主”……そんな馬鹿げた話を、俺たちは本気で追うつもりなのか」

 ライネルが唸るように言う。

 「馬鹿げてるけど、妙に筋は通ってるのよ」

シルヴィアは肩を竦めた。

「依頼人が死んでて、でも依頼が届く。

……あり得ぬことって、いつもそうやって始まるじゃない」

 「けれど、幻が依頼を出すなど――」アリアが言いかけ、手にしていたロザリオを見つめた。

「……もしかすると、魂が“還れない”のかもしれません」


 その言葉に、空気が一変した。

 マリーベルが真っ赤な髪を揺らし、低く呟く。

 「“死者が穴を通って天上界か地下界へ行く”……あの言い伝え、か。まさか、ほんとに……」

 「あり得ぬことが、今は現実になってる」シルヴィアが言った。

 「けど、俺たちが確かめるしかない」ルシアンが立ち上がる。

 「父と夫の仇は、この“穴”の向こうにいるかもしれない」


 ◇


 昼過ぎ、五人は都の北端にある“カールスの断崖”へ向かった。

 そこは古代より、死者が通る穴――“魂の井戸”があるとされる場所。

 風が唸り、崖の下から冷たい気流が吹き上がってくる。

 地の底で誰かが呻くようなその音に、アリアが小さく身を竦ませた。


 「嫌な感じ……まるで、誰かの怒りがまだそこにいるよう」

 「怒りか……」ルシアンは呟く。「俺も、同じものを胸に抱えている」


 シルヴィアが崖際にしゃがみ込み、耳を澄ませた。

 「……下から声がする。聞こえる? “合言葉を言え”って……」

 全員の背筋が凍った。

 「合言葉を知らないと殺される」――あの封書の言葉が蘇る。

 「罠だ」ライネルが剣の柄を握る。「降りるな、ルシアン!」

 だが遅かった。

 ルシアンの足元の岩が崩れ、彼はそのまま闇へと飲み込まれた。


 ◇


 落下の衝撃のあと、静寂。

 ルシアンが目を開けると、そこは薄青い光に満ちた地下洞窟だった。

 壁一面に刻まれた古い碑文。

 “あり得ぬことを願う者、ここに残る。”

 それはまるで、彼自身への戒めのようだった。


 どれほど歩いただろう。

 水のしたたる音とともに、影がひとつ揺れた。

 ――幻の女が、そこに立っていた。

 昨夜、四葉亭で見た顔。

 だが今は、透けた姿が涙を流していた。


 「……あなたは、まだ怒りを信じていますか?」

 ルシアンは剣を構えた。

 「お前が、俺の仇を知っているなら教えろ」

 女は首を振った。

 「仇は、あなたの中にいます」

 「何だと?」

 「あなたが殺したのです。あの夜、あなた自身が――父を、夫を。」


 ルシアンの視界が歪む。

 耳鳴りがして、世界が遠のいた。

 「嘘だ……俺が……」

 女は静かに言う。

 「あなたの怒りは、罪を忘れるために生まれた幻。あなたという存在そのものが、復讐の夢が見せた影です」


 ――逆・自分の実体は幻にすぎないと悟る男。

 それが、この瞬間に現実となった。


 ルシアンは膝をついた。

 「じゃあ……俺は、何のためにここにいる?」

 「あり得ぬことを、成すためです。幻が現実を超えるために。」


 ◇


 崖の上。

 仲間たちはルシアンの名を呼び続けていた。

 マリーベルの炎が風に吹かれ、ライネルが縄を降ろし、アリアが祈りを捧げる。

 「……まだ、あいつの魂は消えていない」

 シルヴィアの目が細まった。

 「ねえ、あたしたちは、彼を助けに行くんじゃなくて――“彼が何者か”を証明しに行くのよ」


 アリアの祈りの声が、断崖に反響した。

 「神よ、幻をも救い給え――」


 その瞬間、風が反転した。

 崖の下から、光が立ち昇った。

 光の中には、ひとりの男の影――ルシアンが、幻と現実の狭間で手を伸ばしていた。


 「俺は……“あり得ぬ自分”として、生きていく」


 その声が、確かに届いた。

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