第0222話 ルシアン
雨がやんだ後の石畳は、まるで誰かの涙を吸いこんだように鈍く光っていた。
四葉亭の窓際に吊られたランプが、濡れた街を橙色に染め、通りを行き交う者たちの影をゆらゆらと歪めていた。
扉の鈴が鳴る。
入ってきたのは、黒い外套を纏った男――復讐の旅を続ける者であり、かつて“父と夫”を同時に失った家族の仇を探す者だった。
名をルシアンという。
その足取りは、すでに人間のものではなかった。迷いと執念が混ざり、歩くたびに心の奥で何かが擦れる音がする。
カウンターの奥で、土の騎士ライネルが無言で酒樽を運んでいた。彼の瞳は地の底のように重く、言葉よりも沈黙で会話する男だった。
「また夜を追ってきたか」
と、軽口を叩いたのは風の女盗賊シルヴィアだ。彼女は窓辺の椅子に腰かけ、指先で硬貨を弄びながら、笑いと真実の境目を軽やかに飛び越える。
「今夜は依頼じゃない。……代行だ」
ルシアンはそう言って、机に古びた封書を置いた。
封蝋には、天上界の紋章――“穴を通り抜けた死者”の印が刻まれている。
水の僧侶アリアが静かに封を解いた。中には、震える筆跡で書かれた言葉が並んでいた。
> 『あの男を討ってくれ。ただし、依頼主は名を明かせぬ。代行者が手を下せ。合言葉は、風のなかに在る。』
「また面倒な書き方をしてくれるわね」
マリーベルが炎色の髪を揺らしながら、机を叩いた。
「依頼主が自分で動けないのはわかる。でも、代行者ってのは誰のこと?」
「――俺だ」
ルシアンの声は低く、冷えていた。
「……だが、俺はもう“誰かのために殺す”ことに迷いがある」
四人の視線が交わる。
いつもの軽口も、この夜ばかりは出なかった。
「仇を討つ。それが、おまえの生きる理由じゃなかったのか?」
ライネルの言葉は石のように鈍重で、しかし確実に心臓を打つ。
ルシアンは唇を噛んだ。
「父と夫を奪われたあの夜から、ずっと復讐だけが生きる支えだった。だが……それを果たせば、本当に俺は生きているといえるのか?」
沈黙のあと、アリアが祈るように言葉を落とした。
「神の沈黙の中にも、ひとつの答えはあるはずです。あなたの怒りが、正しいかどうか――それを確かめるために動くことも、代行なのでは?」
“代行”という言葉が、妙に重く響いた。
それは依頼人に成り代わって行動することを意味する。
だが、ルシアンにとってそれは“復讐そのものを疑う”という意味をも孕んでいた。
その夜、四葉亭の地下室で、もう一つの打ち合わせが行われた。
シルヴィアが地図を広げ、ライネルが封蝋の残骸を鑑定し、マリーベルが炎で文字を浮かび上がらせた。
浮かび上がった言葉はこうだった。
> 『合言葉を知らぬ者、死すべし。』
「つまり、誰かが罠を張っている」
シルヴィアが眉をひそめる。
「合言葉を知らなければ、依頼を遂行する前に殺されるってことね。……援助者の指示が、わざと間違ってる可能性があるわ」
「援助者?」
ルシアンが顔を上げる。
「この手紙を持ってきたのは、街の修道士――あの“沈黙のグレゴリウス”だ。彼は俺に、“風に耳を傾けろ”とだけ言って消えた」
アリアの顔が蒼ざめた。
「その人……昨夜、教会裏の井戸で遺体が見つかったそうです」
静寂。
シルヴィアの指先から転がり落ちた硬貨が、カランと鳴る。
「まさか、合言葉を知らなかったのね……」
援助者の死は、確信をもたらした。
“依頼”は罠であり、“代行”は儀式。
そして“穴を通る死者”とは、命を落とした代行者を指しているのではないか。
「つまり、この依頼を受ければ、お前も――」
マリーベルの言葉を、ルシアンが遮った。
「構わない。俺はもともと、死者の列に並ぶ覚悟でここにいる」
その瞬間、四葉亭の灯がふっと揺らめいた。
誰かが扉を叩く音。
「入れ」ライネルが言うと、そこに立っていたのは一人の女。
薄青いヴェールで顔を覆い、口元にかすかな血の痕を残していた。
「……あなたたちが、代行を引き受けた方々ですね」
「依頼主か?」
「いいえ。依頼主はすでにこの世におりません。わたしは――あの人の“幻”です」
空気が凍る。
マリーベルが呟いた。
「幻だって?……つまり、“あり得ぬ存在”が依頼しているってこと?」
女は頷いた。
「わたしは、彼の復讐の願いが生み出した影です。あなたたちが彼に真実を見せねば、この世界は“あり得ぬこと”として終わるでしょう」
その言葉に、ルシアンは思わず拳を握った。
“仇”を討つということが、誰の願いで、何のためなのか――その根が、幻の中にまで広がっている。
シルヴィアがため息をつく。
「やれやれ……また、面倒でおいしい謎の登場ってわけね」
「俺たちはどうする?」
ライネルの問いに、アリアが静かに答えた。
「幻を倒すことではなく、幻を理解する。それが、この依頼の“代行”ではありませんか」
その瞬間、ルシアンの心に、言葉にならぬ痛みが走った。
――もし仇もまた幻なら?
――もし自分自身が、その幻の一部なら?
“嫌な感情”が、ふたたび湧き上がる。
怒りではない。
疑いでもない。
自分が信じてきた現実そのものが、音もなく崩れていくような恐怖だった。
その夜、彼らは再び決意する。
真実を暴くために――幻の正体を知るために――そして、あり得ぬことを成すために。




