第0217話 ランプの明かり
街を包む霧は、まるで忘れられた者たちの吐息のようだった。
夜が深まるたび、石畳は湿り、ランプの明かりが溶ける。
人々が眠りに沈むころ、ただ一つの扉だけが、夜を拒むように灯を保っていた。
――酒場《四葉亭》。
煤けた木扉を押すと、暖かな光と笑い声が迎えた。
奥のテーブルでは、四人の影がゆるやかに酒を傾けている。
土の騎士ライネルは、頬杖をつきながらグラスの底を覗いていた。
彼の瞳は黒曜石のように暗く、そこには過ぎた戦の記憶が沈んでいる。
風の女盗賊シルヴィアは、足を組み、ライネルの寡黙をからかうように笑った。
「ねえ、また無口。土の男ってのは、酒より重いわね」
彼女の声は夜風のように軽く、どこか人の心の奥をくすぐる。
火の魔法使いマリーベルは、グラスの中に小さな炎を浮かべながら呟いた。
「この街、また誰かが死んだってさ。教会の鐘が三つ鳴ったわ」
その言葉に、水の僧侶アリアが小さく眉を寄せる。
「……死者の数を数えるより、生者の祈りを覚えていたい」
そのときだった。
酒場の扉が軋む。
冷たい霧が流れ込み、灯りが一瞬揺れた。
男が一人、立っていた。
長い外套の裾は泥に濡れ、肩に結ばれた革紐からは乾いた血の匂いがした。
髪は夜の色、瞳は氷のように無表情。
彼――アルト・ヴァレンは、ゆっくりとカウンターへ歩み寄った。
「……仇を、討ちたい」
声は低く、だが明確だった。
酒場のざわめきが静まり、炎がぱち、と音を立てる。
マスターは無言で頷き、奥のテーブルを指した。
「四葉亭の常連に話せ。ここは“依頼と代行”の店だ」
アルトは歩みを進め、四人の前に立った。
沈黙。
やがてライネルが、重い声を落とす。
「仇討ちとは……誰のためだ?」
「父と、妻のためだ。二人を殺した男がいる。あいつを見つけて斬りたい」
短い言葉だった。だがその裏に、焼け焦げた感情が詰まっていた。
マリーベルが杯を回しながら言う。
「仇討ちはね、燃えやすい火みたいなものよ。自分まで焼かれる覚悟はある?」
アルトは視線を逸らさない。
「焼けても構わん。俺は……あの夜から、生きてなどいない」
その言葉に、アリアが僅かに震えた。
「死んでいない者が、死を語るのは危ういわ」
シルヴィアは笑いながらも、目の奥は鋭かった。
「でもさ、死者が歩いてるように見えるときってあるじゃない。
――まるで、幻が現実に迷い込んだみたいに」
ライネルはその言葉を受け、杯を置いた。
「……なるほど。ではその幻を、我々が追おう」
アルトの目がわずかに揺れた。
その瞳の奥で、灯火が消えかける。
彼の影が、床に薄く伸び――
一瞬、途切れた。
誰も気づかない。
ただ、アリアだけが冷たい汗を覚えた。
(……この男、影がない?)
四葉亭の奥で、時計が鳴った。
ちょうど深夜の一時。
酒の匂いの中で、何かが確かに「ずれ」ていた。




