第0216話 港町の海風
霧は、あの日から訪れていない。
海から戻った村は、冬の終わりのように静まり返っていた。
波の音が遠く、柔らかく、まるで時間そのものが溶けていくようだった。
四葉亭は、その後も変わらず営業を続けている。
だが、あの日の出来事は――決して消え去らなかった。
店の奥の一室には、依頼書と共に、石の欠片が小箱に収められている。
表には、かすかに点字のような刻印が浮かんでいる。
──触れられない真実。
朝、扉を押すと、シルヴィアがカウンターの端で煙草をくゆらせていた。
「ねえ、あの後さ……ライネル、お前、何か変わったと思わない?」
ライネルは無言で、外に差し込む朝日を眺める。
彼の瞳には、以前にはなかった光が宿っていた。
「変わったかもしれない。いや、変えることをやめたんだろうな、俺は」
マリーベルは鍋をかき混ぜながら、そっと笑う。
「嫌な感情……あれはもう、祝福するべきものね。
人が触れてはいけないものに触れたとき、彼らは変わる。
そして、真実そのものを生きる覚悟を得る」
アリアは窓辺で小さく祈りを唱える。
「恐怖も、疑念も、嫌悪も――
それらはすべて、私たちの心を試す贈り物です」
彼女は手のひらで、小さな石の破片を包み込んだ。
「私は祝福します。あなたが触れたその真実を」
オスカー・リードの席は、空いていた。
だが、彼の存在は消えていなかった。
小箱の中の石片は、時折、微かな光を放つ。
まるで呼吸をしているように。
シルヴィアが笑う。
「触れられない真実……ってのは、触れてしまった者の心にだけ残るものなんだろうね」
ライネルが答える。
「それでいい。嫌な感情は、終わりじゃない。
むしろ始まりだ」
その言葉に、四葉亭の空気がゆるやかに震えた。
外には、港町の海風。
そして遠くから、石が鳴るような音が聞こえてきた。
誰もその音に振り向かなかった。
だが確かに、そこには――また、新たな物語の始まりがあった。




