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第0215話 エルドリクの弟子――ヴァ―ル

 夜、四葉亭の面々はエルドリクの館の客間に泊まった。

 霧が断崖の向こうから這い上がり、窓硝子を曇らせている。

 マリーベルは蝋燭の火をいくつも灯し、淡い橙の光で闇を押し返していた。


 「触れられない点字、ねぇ」

 シルヴィアが窓辺に腰掛け、爪先で硝子を叩く。

 「触れると壊れる真実、なんて、恋愛みたいだわ」

 「軽口を言うな」ライネルが低く返す。

 「お前はいつもそうやって、恐怖を笑いで覆う」

 「覆わなきゃやってられないさ」シルヴィアは笑う。

 「怖いものを怖いって言えないのは、戦場でも同じ」


 アリアは黙って祈りの珠を指でなぞっていた。

 彼女の瞳の奥に、何かを見ようとする強い光が宿っている。


 「……ねえ」アリアが小さく言った。

 「“触れられない”というのは、もしかすると、

  “理解されてはいけない”という意味ではないでしょうか」


 ライネルは眉をひそめた。

 「どういうことだ」

 「真実は、誰かがそれを“定義”した瞬間に止まる。

  でも、言葉にならないものは流れ続ける。

  だから、触れられない点字は、“流れのままにある真実”なのかもしれません」


 マリーベルが静かに息を吐く。

 「哲学か信仰か知らないけど、どっちにしても厄介ね」

 その声には、火のような皮肉と、氷のような理解が混じっていた。


 風が揺らぎ、部屋の隅の古い書棚が軋んだ。

 ライネルが即座に立ち上がる。

 「……今、誰かいたか?」

 「いえ」アリアが震える声で答える。

 「でも……感じました。“読む”ような気配を」


***


 翌朝。

 エルドリクの館の地下には、盲目の男が“書いた”と思しき奇妙な部屋があった。

 壁一面に無数の点。

 だが、それらは触れた瞬間に音を立てて崩れ落ちる。

 粉塵が舞い、淡く光る。

 まるで“文字の死”だった。


 「これが……逆の点字か」

 ライネルは手袋をはめた指先で空中をなぞった。

 だが、触れた感覚はなかった。

 それでも確かに、“何か”がそこにあった。


 シルヴィアが呟く。

 「空気に刻まれた文字……こんなの、どうやって盗むってのよ」


 アリアが顔を上げる。

 「――盗んだのは、“見える者”ではありません」

 全員の視線が集まる。

 「弟子は、目が見えなかったのです」

 「盲目で……? じゃあどうやって――」

 マリーベルが言いかけたとき、部屋の奥から声がした。


 「“読む”ということは、“触れる”ことではない」


 薄暗い通路の先に、人影があった。

 若い男。灰色の外套に、額には同じ“点の刻印”。

 エルドリクの弟子――ヴァ―ル。


 ライネルは剣に手をやった。

 「……貴様が盗んだのか」

 「盗んだ? 違う。師が封じた真実を、“救い出した”のだ」

 彼の声は淡々としていた。

 「触れられない点字は、真実を守る牢獄だ。

  誰にも読めないようにした。だが、読まれなければ意味がない」


 マリーベルが炎を灯す。

 「読んで、どうするつもりだったの」

 「海の底に眠る声を、解放する」


 その言葉に、アリアの顔が青ざめた。

 「……海の底?」

 「そうだ。

  “ネレウス”は、まだ沈黙の底で待っている。

  彼は“触れられぬ言葉”の主だ」


 ライネルが剣を抜くより早く、

 ヴァ―ルの背後の壁が波のように揺れた。

 点の列が動き、光を帯び、空間そのものが“読まれ始めた”。


 空気が裂ける。

 見えない水流が部屋を満たし、霧のような圧力が押し寄せた。

 マリーベルの火が消える。

 シルヴィアが叫ぶ。

 「逃げろ!」


 だがアリアだけが動けなかった。

 彼女の目の前で、ヴァ―ルの手が光を放つ。

 点字のような光の列が宙を舞い、

 それが彼女の指先に触れた瞬間——


 痛みでも、冷たさでもなく、理解が流れ込んできた。


 “海の底にあるのは、終わりではなく、始まり”

 “見るな、触れるな、しかし知れ”


 アリアは膝をついた。

 「……これは、“祝福”?」


 ヴァ―ルは微笑んだ。

 「触れられぬものに、人は惹かれる。

  だが、それは恐怖ではなく、呼び声だ」


 ライネルが彼に斬りかかる。

 刃が空を裂いた瞬間、ヴァ―ルの姿は霧に溶けた。


 残されたのは、淡く光る点字の列だけ。

 それがゆっくりと形を変え、壁に刻まれる。


 “嫌な感情の名は、理解”


***


 夜、四葉亭の者たちは再び焚火を囲んだ。

 誰も言葉を発しなかった。

 マリーベルが炎を見つめながら呟く。

 「触れれば壊れる。けど、触れなければ届かない。

  ねえ……人はどっちを選べばいいのかしら」


 アリアは祈りの珠を握りしめ、静かに言った。

 「触れられないまま、信じること。

  それが、わたしたちの“反論”になるのかもしれません」


 風が吹き、灰が舞う。

 それはまるで、石の粉が夜空に還っていくようだった。


 霧の向こうで、波の音がした。

 海はまだ遠いはずなのに。


 ――嫌な感情は、触れられない真実の影。

 けれどその影を知ることこそ、人が人である証なのだ。

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