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第0214話 答えは、海の向こうへ消えた。

 海底は、沈黙していた。

 音も、光も、時間も、すべてが一瞬で凍りつくような世界。

 ライネルたちは、鏡板に吸い込まれるようにして、

 この「逆さの海の底」へと落ちてきたのだ。


 足元は砂ではなく、黒曜の文字盤だった。

 幾千もの点字が沈み込み、波のように揺れながら形を変える。

 それはまるで、見えぬ誰かの指が、今もなお“読んでいる”かのようだった。


 「ここが……“真実の裏側”……?」

 アリアの声は、水泡のように小さく弾けて消えた。


 「それにしても静かだな」

 シルヴィアが、呼吸のたびに震える水面を見た。

 「海の底って、もっと怖いかと思ってたけど……

  こいつは“静かすぎて”怖ぇ」


 マリーベルの掌に灯った小さな火だけが、唯一の色を持っていた。

 「光が……吸い取られていく」

 火の魔法は、たちまち水に溶けるように消えた。

 「おかしい……魔力の抵抗がまるでない」


 ライネルは剣を抜いた。

 「ここでは、触れたものが形を失う。

  おそらく、俺たちの言葉も同じだ」


 ――触れるな。

 ――語るな。

 ――見るな。


 海底の闇は、まるで禁令のように四人を包み込んだ。


***


 しばらく進むと、遠くに“建物のような影”が見えた。

 半ば崩れた神殿のようであり、同時に巨大な机のようにも見えた。

 その中心に、石像があった。


 それは――盲目の学者エルドリクだった。

 海底の冷気の中で、完全に石と化していたのだ。


 「なっ……どういうことよ」

 シルヴィアの声が震える。

 「あいつ、地上で俺たちを待ってたはずじゃ……!」

 「……ここで、“読んでいた”んだ」

 ライネルの低い声が響いた。

 「彼は自ら、点字の裏側に触れたんだ。

  自分を犠牲にして、何かを封じたんだろう」


 アリアがそっと膝をついた。

 「石化した……というより、固定されたように見えるわ。

  まるで、彼自身が“文字”の一部になっている」

 「それが、“読むことのできない真実”か」

 マリーベルが呟く。

 「意味になる瞬間に、命は凍る……。嫌な理屈だわ」


 その時、神殿の奥から声がした。

 ――「それでも、読む者は現れる。」


 闇の中から、一人の青年が歩み出た。

 彼の首には“逆さの蛇と杖”の紋章がぶら下がっている。

 エルドリクの弟子――ヴァールであった。


 「あなたが……盗んだのね。逆写板を」

 アリアの声は震えていた。


 「盗んだ?」

 ヴァールは静かに笑った。

 「違う。奪い返したのさ。師が捨てた“真実”を。

  彼は恐れたんだ。真理を触れることが“神への冒涜”だと。

  だが俺は信じる。人間の指先は、触れるためにある」


 「愚か者め」

 ライネルが低く言った。

 「触れた瞬間、お前は“言葉”になる。

  もはや語ることも、聞くこともできぬ存在に」


 「それでもいい」

 ヴァールは笑った。

 「“真実”に触れた者は、永遠になる。

  師は石となり、俺はその続きを読む」


 そう言って、彼は両手を広げ、

 石造の壁一面に刻まれた点字へと触れた。


 ――世界が、崩れた。


***


 水が裂け、天が反転した。

 言葉が音を失い、音が意味を持ち始めた。


 シルヴィアの叫びも、マリーベルの炎も、

 アリアの祈りも、形を変えて“記号”になった。


 ライネルだけが、辛うじて立っていた。

 彼の足元で、黒曜の文字盤が波打ち、ヴァールの姿が徐々に石へと変わっていく。


 「ヴァール!」

 呼んでも、彼の耳はすでに存在していなかった。

 点字の“点”が、肌の下に浮かび上がっていく。

 彼の体が、暗号そのものへと変化していく。


 「……止める方法は?」

 アリアの声が震える。

 「ない。だが――」

 ライネルは剣を地面に突き立てた。

 「封じることはできる。読まれぬように」


 彼は剣の柄に手を当て、祈るように呟いた。

 「俺の記憶を、ここに刻む。

  “読もうとする心”を、沈めるために」


 地を這うように、魔法陣が広がった。

 点字の海が震え、ヴァールの体がその中央に沈んでいく。

 彼の最後の言葉は、泡となって消えた。


 ――「触れられない真実ほど……美しいんだ……」


***


 静寂。

 神殿が崩れ、海が満ちていく。


 アリアは涙をこぼした。

 「彼は……真実を愛していたのね」

 「だが、愛した瞬間に滅んだ」マリーベルが吐き捨てる。

 「こんなものが“知”か? “救い”か?」


 ライネルは黙ったまま、崩壊する海底を見つめていた。

 「真実とは、きっと“止められないもの”なんだ」

 彼の声は、波の奥に消えた。


***


 海から浮上したとき、夜が明けていた。

 四人は海辺に横たわり、静かな風を受けていた。

 シルヴィアがうめくように笑った。

 「……こんな依頼、もうごめんだね」

 「同感だ」マリーベルが呟く。

 「けど、終わっていない」


 ライネルは、手の中にある破片を見つめた。

 それは、鏡板の欠片。

 表面には何も映らない――が、裏側には淡い光の点が残っていた。

 “逆の点字”の最後の断片。


 「これは、ヴァールの遺した“余白”だ」

 ライネルはそっとポケットに収めた。

 「触れられない真実の、最後の影……」


 アリアが、ほとんど聞こえぬ声で問うた。

 「ねえ、ライネル。

  もし、真実に“触れない”ことが正しいなら、

  私たちは、何のために探偵をしているの?」


 風が砂を運ぶ。

 答えは、海の向こうへ消えた。


 ライネルはただ、目を閉じた。

 「……それを確かめるために、生きているんだ」


***


 その夜、四葉亭に戻った彼らを、

 老主人が静かに迎えた。


 「お帰りなさい。――依頼は、果たされたかね?」

 ライネルは小さく頷いた。

 「依頼は終わった。だが、真実は……終わっていない」


 老主人は微笑んだ。

 「ならば、また次の依頼が来るだろう。

  真実は、いつも“嫌な感情”を連れてくるものだ」


 ライネルは、ポケットの中の破片を握り締めた。

 光の点が、脈のようにかすかに瞬いている。

 ――それはまだ、誰にも読まれていない暗号だった。

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