第0213話 学者の館
四葉亭の扉を押すと、朝の光が斜めに差し込んだ。
夜の酔客が去ったあと、残るのは木の匂いと、焦げたパンの香り。
テーブルの上には、昨夜の依頼書が置かれている。
封蝋には「蛇と杖」の紋――かつて王立学問院に仕えた学者の印だ。
「“盲目の学者”と呼ばれてる男さ」
シルヴィアが軽口を叩いた。
「見えない目で、誰よりも多くを見ているって評判だよ。怖いねえ、あたしら探偵の飯の種、取られちまいそうだ」
「軽口を言うな」
ライネルは彼女の肩を軽く押し退けた。
「この依頼は……厄介だ。点字――いや、“逆の点字”らしい」
「逆?」
マリーベルの金の瞳が細くなる。火の魔力を宿すその目は、いつも怒りに似た輝きを放っていた。
「触れて読めない点字、という意味か?」
「そうではない。触れれば壊れる点字だと、学者は言っているらしい」
アリアが息を呑んだ。
「触れられない……点字? それは……誰のための文字なの?」
「それを確かめるために行く」
ライネルは短く言い切った。
***
学者の館は、海の方角にあった。
風に混じる塩の匂いが、街の終わりを知らせる。
石畳の路地が砂へと変わり、砂はやがて白い断崖へとつながる。
そこに、目の見えぬ学者エルドリクの家が建っていた。
扉を叩く前に、内側から声がした。
「来たな、四葉亭の者たちよ。音でわかる」
ライネルは思わず剣に手をやった。
「音で……」
「お前たちの靴の底は、それぞれ異なる。土は鈍い、風は軽い、火はせっかちに、そして水はためらいがちに」
扉が静かに開き、白髪の男が姿を現した。両の眼は閉じられ、代わりに額の皮膚に薄く浮かぶ点状の刻印が、まるで“別の眼”のように光っていた。
「あなたが、エルドリク殿か」
「そうだ。そしてお前が、土の騎士――ライネル。
人の声は、その人の地層を映す。お前は深い、沈黙した岩の音がする」
ライネルは返す言葉を失った。
***
館の奥は、書物で埋まっていた。
見えぬはずの男が、指先で一冊ずつ丁寧に触れていく。
その指が触れた瞬間、紙面に細かな光が浮かび、
まるで“文字が呼吸している”かのようだった。
「依頼内容を聞こう」
マリーベルが言った。
「私たちは暗号を解くのが仕事だ。点字を……触れられないというのは、どういう意味だ?」
エルドリクは微笑んだ。
「“触れれば壊れる真実”――それを、私は伝えたかったのだ」
「まるで……呪いのようですね」アリアが囁いた。
「呪い? 違う。これは愛だよ」
沈黙。
ライネルはその言葉の重みに、無意識に拳を握った。
「詳しく聞かせてくれ」
「三年前、私はある王族の密命を受けた。
海底遺跡から持ち帰った“石版”を翻訳せよ、と。
しかしそこに刻まれていたのは文字ではなかった。点だった。
――まるで目の見えぬ者にだけ読める、点字のような配置だった。
私はそれを逆に転写した。見える者にも“見える”ように。
だが、その瞬間から……触れた者が、石になり始めたのだ」
「石化……」
シルヴィアが口笛を吹いた。
「つまり、触れた瞬間に“読むことができなくなる”暗号ってわけね。洒落てるじゃないの」
「洒落では済まない」
エルドリクはゆっくり首を振った。
「その石化は、肉体ではなく“言葉”に及ぶ。
意味が固まってしまうのだ。
どんな真実も、一度定義されれば死ぬ。
だから私は……“触れられない点字”を作った。
読むことも、触れることもできない。
けれど、確かにそこに“ある”と知覚できるように」
「理解はしたが、依頼とは?」
ライネルが問うと、男は微かに笑った。
「私の弟子がそれを盗んだ。
“見えない点字”を複製しようとして、消えた。
残されたのは、点字の配置を写した『逆写板』だけ。
――その板を見つけてほしい。そして、解読してはいけない」
「……触れずに、見つける?」
シルヴィアが苦笑する。
「風任せな話ね」
ライネルは、重い沈黙の中で言葉を探した。
この依頼には何かがおかしい。
“見えないものを探す”――それ自体が、探偵としての本能を刺激した。
しかし同時に、底知れぬ嫌悪感が胸を占める。
触れれば壊れる、見ることすら罪になる真実。
まるで“知ろうとすること”そのものが、罰のように思えた。
***
その夜、四人は海辺の宿に泊まった。
波の音が床下を叩く。
灯りの下で、シルヴィアが地図を広げる。
「学者の弟子は、港町の地下書庫で姿を消したらしい。
遺されたのは“鏡板”ってやつだ。
つまり――逆に映すことで点字を読む装置、だとか」
「鏡、か……」
ライネルは呟いた。
「見てはいけないものほど、人は鏡に映したがる」
「哲学はいいけど、あんたの顔が怖いよ」シルヴィアが笑う。
「怖いのは真実のほうだ」マリーベルが火を見つめながら言う。
「見る者がそれに値しないと、真実は燃えるの」
アリアが静かに頷いた。
「でも……それでも、知りたいと思ってしまうのよね」
四人の沈黙を、波音だけが満たしていった。
***
翌日、彼らは地下書庫へと向かった。
石造りの階段を降りるごとに、空気が湿り、潮の匂いが濃くなる。
――まるで海底へ沈んでいくようだった。
最下層にたどり着くと、鏡のような板が壁に立てかけられていた。
表面には、何も見えない。
だが近づくと、指先が微かに“抵抗”を感じた。
まるで空気が粒子を持っているかのように。
「これが、“触れられない点字”か……」
ライネルが囁いた。
シルヴィアが息を潜め、指を伸ばそうとする。
「触れるな!」
マリーベルが炎を灯して叫ぶ。
その炎の明かりに、鏡面が一瞬、波紋のように揺れた。
そこに――無数の点が、逆さまに並んで浮かび上がった。
「逆の点字……!」
アリアが声を震わせた。
「まるで、誰かが“裏側”から書いたみたい」
「つまり、読む者の世界が反転する」
ライネルは息を呑んだ。
「表と裏。海と陸。生と死。
――その境界に立たなければ、真実には触れられない、か」
その瞬間、館の上方で轟音がした。
海が崩れるような音。
塩と鉄の匂いが流れ込み、壁が震えた。
鏡板が勝手に動き、光を放つ。
点字が反転した――いや、“彼らの位置”が反転したのだ。
足元がぐらりと揺れ、視界が裏返る。
見上げると、水の層を通して、
今まで立っていた床が“天井”に見えた。
「……ここは?」
「海底だ」
ライネルは呟いた。
「“逆・海の彼方”――敵は、ここにいる」
***
そして彼らは、初めて悟った。
盲目の学者が言っていた“読むことのできない真実”とは、
言葉ではなく、世界そのものだったのだ。
――見ようとすれば、世界は反転する。
――触れようとすれば、意味は石となる。
その感覚に酔いながら、ライネルはふと笑った。
「嫌な感情、というやつだな。
触れたいのに、触れられない。
それでも、俺たちは進むしかない」
彼らの足元で、鏡板が静かに砕けた。
水泡がひとつ、天へと昇る。
それは、まだ誰も知らぬ真実の予告であった。




