第0212話 焚火の灰
翌朝、霧は夜よりも濃かった。
村の広場では、風が吹くたびに粉のような石の欠片が舞い、
それが陽に反射して銀の塵のように光っていた。
オスカーは早くから石像の間を歩き回っていた。
手帳を片手に、ひとつひとつの手の形を描き写している。
まるで祈りの儀式を繰り返すような、静かな熱狂だった。
「朝食も食べずにそれか。」
ライネルの低い声が背後からした。
彼は霧の中でも影のように無口で、冷たく見える。
「食べている暇がない。」オスカーは視線を上げずに言う。
「見ろ、この指の形……五体すべてが違う。だが並べると、まるで“文”のようだ。」
彼は石像の手をなぞり、その隙間を丁寧に測る。
指先の曲がり、関節の向き。
その細かな違いに、何かの秩序を感じているらしかった。
「おい、やめとけ。」
ライネルは短く言い、彼の手を掴んだ。
冷たい。
人の手とは思えないほど冷たい。
「お前の指、もう石みたいだ。」
オスカーは笑ってみせる。
「これは“感染”じゃない。理解の代償だよ。」
「代償だと?」
「真実を読み取るためには、石に近づかなきゃならない。」
そのやり取りを、少し離れた場所で見ていたシルヴィアが笑う。
「なるほどね。
じゃああんたは、知りたすぎて自分を削ってるってわけだ。まるで恋みたい。」
オスカーは何も言わず、再び石像に手を伸ばす。
アリアがそっと近づき、彼の手の上に自分の掌を重ねた。
柔らかな温度が流れ込む。
彼の手の白さが、少しだけ戻った。
「……無理をしないでください。」
彼女の声は、水が岩を撫でるように静かだった。
「触れられぬものに焦がれると、人は壊れます。」
オスカーはわずかに笑い、彼女の手を離した。
「壊れるとしても、触れたいんだ。」
その言葉に、アリアの瞳が揺れた。
その日の午後、四葉亭の面々は村の教会跡に集まった。
そこは崩れかけた石壁と、ひしゃげた鐘楼が残るだけ。
だが内部には異様な静けさがあった。
「見て。」マリーベルが指差した。
祭壇の床に、石でできた手形のモザイクがあった。
大小様々な手が並び、まるで巨大な文章のように配置されている。
オスカーは息を詰めた。
「これは……合図の完成形だ。」
その瞬間、空気が変わった。
霧が動き、まるで教会そのものが息を吸ったかのように感じた。
マリーベルの頬に冷気が走る。
「これ、魔力じゃない。何か……意志みたいなものよ。」
石の床に刻まれた手形のひとつが、わずかに動いた。
石が生きているように震え、音を立てる。
カリ……カリ……カリ……
それは“音の点字”だった。
ライネルが剣を抜く。
「離れろ!」
マリーベルが炎を構える。
だがオスカーは動かない。
「違う、これは攻撃じゃない。彼らは——話してる。」
耳を澄ます。
石の擦れる音が、言葉に聞こえる。
“わたしたちは、見られている”
オスカーの唇が震える。
「……誰に?」
石の床が一斉に鳴った。
“海の底のものに”
教会の奥から風が吹き抜けた。
まるで深海の冷たさを孕んだような、重い風。
シルヴィアが小さく舌打ちする。
「海? ここは山の村だろ。どういう意味よ。」
アリアが囁く。
「“海の底”……聖書では、沈黙と封印の象徴です。」
オスカーは立ち尽くしていた。
彼の手帳の紙面には、すでに幾重もの記号と線が走っている。
それはまるで狂人の落書きのようだった。
ライネルがその手帳を取り上げようとした。
「もうやめろ。お前は壊れかけてる。」
「違う!」オスカーが叫ぶ。
「僕は近づいている! 彼らの“意思”の源に!」
マリーベルが怒鳴る。
「その意思ってのは、死人の囁きよ! 正気じゃない!」
「でも、真実だ。」
その瞬間、床の手形が再び動いた。
石の手がオスカーの足首を掴む。
冷たさが走り、彼の皮膚が白く変色していく。
アリアが叫び、シルヴィアが短剣でその手を叩き切る。
砕け散った石の破片が宙に舞う。
粉の中で、誰かの声が囁いた。
“戻るな。まだ、深くまで。”
オスカーは震える手で床の文字を追った。
「“深くまで”……?」
「読むな!」ライネルが叫ぶが、彼は止まらない。
彼の瞳に、淡い光が灯った。
そして、口からひとつの言葉が零れた。
「ネレウス」
マリーベルが息を呑む。
「異端者の名……!」
その名を発した瞬間、教会の壁がひび割れた。
天井から石の粉が降り、外の霧が逆巻くように流れ込む。
オスカーは呆然と立ち尽くした。
その目は、恐怖ではなく——陶酔。
「彼が見ている……海の底から……」
その時、アリアが彼の肩を抱いた。
彼女の指先から光が流れ、オスカーの足元の白さが少しずつ薄れていく。
「まだ戻れます。あなたはまだ人間です。」
オスカーは彼女を見つめた。
だが、その瞳の奥にはもう“石の色”が宿っていた。
その夜、四葉亭の面々は再び焚火を囲んだ。
だが、誰も口を開かなかった。
炎の向こうで、オスカーはただ一点を見つめていた。
「ネレウス……海の底……そこに、答えがある。」
ライネルが低く言った。
「それは、戻れない場所だ。」
「それでも行く。」
風が吹き抜け、シルヴィアの髪を撫でる。
「行くって言うなら、私も行くさ。
どうせ“真実”ってやつは、誰かの墓場の上に咲くんだろう?」
マリーベルが舌打ちした。
「あんたら、ほんとに懲りないわね。」
アリアは焚火の光に照らされながら、静かに祈りの言葉を紡いだ。
——触れられぬものに、人はなぜ惹かれるのか。
その問いは、夜の霧に溶けていった。
焚火の灰が、ひとひら、石のように白く輝いた。




