第0211話 石の鳴る音
——霧は、夜明けよりも早くやってくる。
灰色の雲が山間の村を包み、まだ眠る家々の屋根に冷たい露を落としていた。
その中を、四つ葉の看板を掲げた一台の馬車がゆっくりと進んでいる。
御者席には土の騎士ライネルが座り、無言のまま手綱を握っていた。
隣で脚を投げ出して欠伸をしているのは、風の盗賊シルヴィアだ。
その後ろには、赤い外套の魔法使いマリーベルが腕を組み、
祈りの言葉を小声で繰り返す青衣の僧侶アリアが座っている。
馬車の中には、ひとりの青年がいた。
浅い金髪に、書物の匂いをまとった学者風の男——オスカー・リード。
彼が持ち込んだ箱の中には、何かが入っている。
布で包まれたそれは時折、軽い音を立てた。石がぶつかるような、乾いた音。
「……この中身、聞いてもいいか?」
沈黙を破ったのはライネルだった。
オスカーはほんの少し微笑み、箱の布をそっとめくる。
そこには——灰白の石像。
けれどその形は、まぎれもなく仔猫だった。
「動物が……石に?」
アリアが息を呑む。
「そう。生きたまま固まった。皮膚も、血も、鳴き声も、そのままに。」
オスカーの声には静かな熱があった。
「この村では、ここ数ヶ月の間に同じ現象が相次いでいます。最初は小動物。次に人間。今では——祈るような姿で。」
「気味の悪い話ね。」マリーベルが吐き捨てるように言った。
「呪いか、病か、それとも魔術か。」
「学問です。」オスカーはきっぱりと答えた。
「私は解明したい。この“石化”が何なのか。どうすれば解けるのかを。」
彼の眼は真剣だった。だがライネルは視線を逸らす。
「……触れるなよ。石は死だ。」
「死ではありません。」オスカーの声が強くなる。
「これは“変化”です。形を変えるだけの、生命の進化だ。」
その言葉に、馬車の空気が一瞬、凍りついた。
シルヴィアが口の端を上げて笑う。
「へえ、進化ねぇ。じゃあ、あんたが石になったら、その時もそう言える?」
オスカーは答えず、箱を抱きしめた。
馬車はやがて、霧深い丘の上に建つ村の門へとたどり着く。
門は半ば崩れ、番人の姿もない。
村に入ると、まず目に入ったのは“石”だった。
道端、井戸の傍、教会の前……
まるで人々がその瞬間に祈り、そして固まったように、あちこちに石像が並んでいた。
アリアが小さく十字を切る。
「神よ、なぜ……」
マリーベルは顔をしかめ、シルヴィアはしゃがみこんで一体の石像を覗き込む。
「手の形……不自然ね。」
指が、何かの形を作っていた。まるで“印”のように。
「これが“合図”です。」オスカーが呟く。
「彼らは、石になる直前、何かを伝えようとしていた。」
ライネルは剣の柄に手を置き、低く言った。
「伝えようとしても、石にされたら意味がない。」
「いいえ。」
オスカーはその手を振り払うように、石像の指先をなぞる。
「これは……何かの“文字”です。」
触れた瞬間、彼の指が微かに白く曇った。
アリアが驚き、シルヴィアが手を伸ばそうとするが、彼は制した。
「大丈夫だ。これは……ただの粉末だ。」
だがその声には、どこか陶酔の色が混じっていた。
「まるで、石が呼吸しているみたいだ。」
その夜、彼らは村の宿屋の残骸を使い、簡易の焚火を囲んだ。
風がうねり、マリーベルの炎が揺れる。
「それで、あんたの言う“進化”ってのは何なの?」
シルヴィアが問いかける。
オスカーは焚火の向こうに視線を投げたまま、答えない。
「昔、こう言った人がいました。」とアリアが静かに続ける。
「“人は神に近づこうとするとき、必ず何かを失う”……」
「つまり、知りすぎるってことね。」シルヴィアが肩をすくめる。
ライネルが低く呟いた。
「——そして、石になる。」
その瞬間、焚火の光が一際強くなり、村の奥で何かが光を反射した。
ライネルが立ち上がる。
「何かいる。」
全員が武器を構える。
霧の中から、のろのろとした影が現れた。
人の形をしている。だが、皮膚は灰白で、目は空洞。
それはまるで、石から抜け出た人間のようだった。
マリーベルが火球を放つ。だが影は炎の中で微笑み、
そのまま風に溶けていく。
「消えた……?」アリアが息を呑む。
残されたのは、地面に落ちたひとつの石片。
それは、指の形をしていた。
そしてその表面には、点字のような浮き彫りが刻まれていた。
オスカーはそれを拾い上げ、ため息を漏らす。
「……これが、“彼ら”の言葉だ。」
彼は微笑むが、その表情はどこか狂気じみていた。
ライネルは剣を鞘に戻し、冷たく言う。
「もうやめろ。これ以上、深入りするな。」
しかしオスカーは静かに首を振る。
「真実は、触れなければわからない。」
霧の向こうで、またひとつ、石の鳴る音がした。




