第0203話 依頼主:不明
雨がやんだ翌朝、四葉亭の屋根にはまだ夜の湿りが残っていた。
瓦の隙間に溜まった雫が、ひとつ、またひとつと落ちる音が、空気をゆっくり裂いていく。
酒場の扉の前に立つライネルは、手にした羊皮紙の依頼書を無言で見つめていた。
――《依頼主:不明 内容:ある暗殺の真相を確かめてほしい》
文字は震えていた。まるで書いた者の手が、己の罪を恐れていたように。
「また“殺し”の依頼か……」
マリーベルが低く呟いた。火の髪を乱し、椅子の背にもたれて。
「おまえがためらうなんて珍しいな」と、シルヴィアが茶化す。
「ためらってなどいない。ただ――」
マリーベルは指先でテーブルをなぞり、煤けた木目を見つめた。
「この依頼、どこか既視感がある。私たちは……もう、一度この殺人を受けている気がする」
ライネルが重い鎧の音を鳴らしながら、椅子に腰を下ろす。
「“もう一度”とはどういう意味だ?」
「記録を見ればわかる。昨夜、私が整理した帳簿に――」
アリアがそっと差し出した羊皮紙には、確かに同じ依頼文が記されていた。日付は昨日。差出人は、名前を伏せた“彼女”。
そして、奇妙なことに、そこにはこうも書かれていた。
> 《もし私が死んだら、犯人はシルヴィア。だがそれは嘘。》
「……あたし?」
風の女盗賊は肩をすくめ、笑ってみせた。
だがその笑いはどこか硬い。
「ま、影の仕事は得意だが、あたしが依頼人を殺すなんて……」
「“影”……か」ライネルが呟いた。「おまえ、誰かに成りすまされたんじゃないか?」
「成りすまされるほどの名じゃないさ」
雨上がりの光が、窓から差し込んだ。
外では、まだ街の石畳が濡れている。
その光を見ながら、アリアが静かに言った。
「ねえ、ライネル。あなたは、“同じ殺人が二度起きる”なんて信じる?」
「信じたくはない。だが、記録がある以上、否定はできん」
沈黙が流れた。
――嫌な感情が、空気の底で蠢いている。
それは“自分が何をしたか”よりも、“誰が何を覚えているか”の問題だ。
*
昼下がり、四人は街の外れ、古い教会跡へと向かった。
そこには“最初の殺人”の現場があると記録されていた。
石壁には苔が張りつき、祭壇は崩れ、瓦礫の上に一枚の黒い外套が落ちている。
マリーベルがそれを拾い上げた瞬間――
背後の影が、ふたつに割れた。
「……誰?」
振り返ったシルヴィアが見たのは、自分自身だった。
否、“彼女に似た誰か”だった。
黒い外套の女。風のように軽く、同じ声で、同じ笑い方をする。
だが、瞳だけが違う。――まるで、他人の記憶を覗いているような灰色の眼。
「まさか……“影のシルヴィア”?」
アリアの声が震えた。
「本物はどっちだ?」ライネルが剣を抜く。
その刃に、光が滲む。
“影のシルヴィア”は笑い、指先でライネルの剣先を撫でた。
「どっちでもいいじゃない。誰かが嘘をついてる。それが世界の形を作るんだから」
そう言うと、彼女は手にした短剣で祭壇を刺した。
――とたんに、教会の奥から、血のような水が滲み出した。
アリアが叫ぶ。「二つの殺人――! 一つは現実、一つは偽証!」
マリーベルが呪文を詠唱し、火の輪を広げた。
ライネルは盾でそれを受け、シルヴィア(本物)は跳び退く。
しかし“影のシルヴィア”は笑いながら言った。
「アリバイはいつだって、真実の裏返し。あなたたちが証明した瞬間、罪は別の場所へ移るのよ」
雨が再び降り出した。
瓦礫を叩く雨音の中、マリーベルが呟いた。
「この雨は……誰を許そうとしているんだ?」
“影”は微笑んだ。
「誰も。だからこそ、みんな殺したいのよ」
その声が消えた瞬間、教会の中には一人分の死体もなかった。
ただ、二つの影が、床に寄り添うように重なっていた。
それが“どちらのシルヴィア”のものだったのか、誰もわからなかった。
*
四葉亭に戻った夜、ライネルたちは再び依頼書を広げる。
そこに書かれていた文は、わずかに変わっていた。
> 《もし私が死んだら、犯人は私自身。だがそれも嘘。》
シルヴィアは何も言わなかった。
マリーベルはただ煙草に火をつけ、ライネルは盃を傾ける。
アリアは祈るように手を組み、呟いた。
「この世界では、死も愛も、同じ形で降るのね……雨のように」
ライネルは小さくうなずいた。
「誰を殺したのかも、誰を愛したのかも――雨がすべてを曖昧にしていく」
そのとき、四葉亭の外で、雷鳴がひとつ鳴った。
まるで、彼らの記憶そのものを、焼き消すように。




