第0202話 司祭エリオット
翌朝、雨はまだ止まなかった。
港の鐘は鳴らず、霧が街全体を覆っている。
夜明けを拒むような灰色の光。
その中で《四葉亭》の扉が軋んだ。
ライネルが鎧を身につけ、剣の刃を点検していた。
「領主の娘の屋敷だな。」
「ええ。」アリアが頷く。
「彼女の遺体は、“密室”で見つかったそうです。」
「密室、ね。」シルヴィアが欠伸をしながら腰の短剣を弄ぶ。
「古典的だこと。どうせ使用人がやったとかじゃないの?」
「その線はもう潰れた。」ライネルが低く答えた。
「屋敷の門は施錠され、雨で足跡も流されている。」
男――記憶を失った暗殺者は黙ってそれを聞いていた。
アリアが彼にマントを渡す。
「濡れないように。」
「……ありがとう。」
「調査に同行して。もしかしたら、あなたが見たものがあるかもしれない。」
「俺が?」
「あなたの右手が覚えていることを、見つけましょう。」
彼女の声は、静かな祈りのように響いた。
領主邸は、丘の上にあった。
濡れた石段を上るたび、靴底が吸い付くように音を立てる。
門の前には兵士たちが並び、雨水が鎧を叩いていた。
マリーベルが呟く。
「死人の匂いね。」
「まだ温い。」ライネルが剣の柄に手をかけた。
「霊を呼ぶようなことはやめてくれよ、火の女。」
「ふん、冗談のつもり?」
「風の冗談よりはマシさ。」
軽い舌戦。
けれど誰も笑わなかった。
屋敷の扉が開かれる。
暗い廊下。
壁には、濡れた絵画。雨の音が室内にまで侵入してくる。
アリアが聖印を切りながら進む。
「神よ、この雨を清めたまえ。」
遺体は二階の寝室にあった。
若い女――領主の娘リュシア。
白い寝間着のまま、胸に短剣が刺さっている。
窓は内側から鍵が掛けられ、床には一面の“蟻”が群れていた。
「……蟻?」
シルヴィアが眉をしかめる。
「死体に群がるには、早すぎる。」ライネルが低く言った。
マリーベルがしゃがみ込み、指先で蟻を掬う。
「この種類……森の方にしかいないわ。」
「じゃあ、誰かが持ち込んだ?」
「あるいは――呼ばれたのよ。」
呼ばれた。
その言葉に、アリアの喉が鳴る。
「聞いて。」
彼女がそっと耳を澄ませる。
部屋の中で、微かに音がしていた。
かさ……かさ……
蟻たちが、一方向へと動きながら、音を紡いでいる。
「……話してる。」
「何を?」ライネルが問う。
「“私たちは見た”って。」
誰も動けなかった。
アリアの瞳の奥が、雨の光を宿して揺れた。
男が一歩、近づく。
蟻の行列の先には、机の上の手紙。
インクが滲んで読めない。
ただ一行――血のような赤で、こう書かれていた。
『雨が、彼を赦すだろう。』
ライネルが低く唸った。
「誰が書いた?」
「リュシアではないわね。」マリーベルが首を振る。
「筆跡が荒い。書いたのは――男。」
男は自分の手を見る。
指先が微かに震えていた。
「俺か……?」
「何を思い出したの?」アリアがそっと問う。
「……暗い部屋。誰かが泣いてた。俺は……“雨の音が好きだ”って言った。」
その瞬間、アリアの顔が強張った。
「……あなた、その言葉を、彼女にも言ったの?」
「彼女?」
「リュシアよ。領主の娘。」
記憶の底に、白い手が浮かんだ。
雨に濡れた手。
柔らかな声。
――“あなたの手は、冷たいのね。”
そして、刃が閃く。
「やめて!」
アリアが男の手を掴んだ。
「その先は、今は見ないで。」
その時、扉の外から声が響いた。
「四葉亭の探偵たちか。」
鎧のきらめき。領主ガロットが現れた。
「調査は進んでいるか?」
「ええ。」ライネルが答える。
「ですが、これは尋常な殺しではない。」
ガロットの目が鋭く光る。
「言葉に気をつけろ、騎士。死者を冒涜するな。」
「冒涜しているのは、あなたの沈黙だ。」
空気が張り詰めた。
マリーベルの手が杖を握り、火花が散る。
シルヴィアが苦笑した。
「また喧嘩? 雨の中で剣を抜くほど、愚かじゃないでしょ。」
「愚かでいい。」ライネルの声が低く響いた。
「この匂い……領主、あんたも血を浴びてるな。」
ガロットの顔が一瞬だけ曇った。
すぐに笑みに変わる。
「面白い冗談だ。……調査を続けたまえ。」
扉が閉まる。
廊下の向こうで、鎧の音が遠ざかっていった。
その夜。
《四葉亭》に戻ると、暖炉の火が弱々しく燃えていた。
雨はやむ気配がない。
シルヴィアが窓辺に立ち、雨の流れを眺める。
「蟻が話すなんて、気味が悪いわね。」
「でも確かに“何か”を伝えてた。」アリアが小声で返す。
「雨が、彼を赦す……って。」
「赦し、ね。」
マリーベルが笑う。
「殺しの後で赦しを求めるなんて、虫より滑稽よ。」
「マリー。」ライネルが低く咎める。
「言葉を選べ。」
「ふん、正義ぶって。あなたこそ、どれだけの血を洗ってきたの?」
空気が冷たくなる。
沈黙を裂くように、男が言った。
「俺は……罪を思い出せない。」
「思い出せない罪は、赦されないわ。」マリーベルが呟いた。
その時、酒場の扉が叩かれた。
雨の夜の訪問者。
扉の外に立っていたのは――司祭エリオット。
「彼を救いたいのです。」
彼は真剣な眼差しで言った。
「今夜、教会へ来てください。……“アリバイ”を証明します。」
彼の声は静かだったが、
それは確かに、次の悲劇の鐘の音だった。




