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第0201話 雨の夜はいつもトラブル

夜の雨が、街の骨を溶かしていた。

 石畳の上を、血のように濃い雨が走り抜けていく。

 鐘の音はもう鳴らない。

 港町は、音のない海に沈んだままだった。


 その沈黙のただなかに、一人の男が倒れていた。

 黒い外套に包まれ、右手には血のついた短剣。

 その刃に映るのは、雨粒ばかりで――彼の顔ではなかった。


 誰を殺したのかも、なぜ倒れているのかも、思い出せない。

 いや、“思い出そうとすると”、脳裏の奥で音がした。

 ザザァ――

 雨の音が、記憶をかき消していく。


 遠く、灯りがにじむ。

 酒場《四葉亭》。

 雨夜の中でもひときわ温かなその扉が、ぎい、と音を立てて開いた。


 「……誰?」

 透きとおるような声だった。

 灯の中から現れたのは、青い修道服の女――アリア。

 その瞳の色は、雨と同じ灰水色。

 彼女は息をのむと、すぐに駆け寄った。


 「あなた……血が……!」

 彼女はためらわず男を抱き起こし、雨の中で祈りの言葉を唱える。

 掌が淡く光り、温もりが滲んだ。

 癒しの魔法。

 だが、彼女の唇は微かに震えていた。

 まるで“癒すこと”自体が、罪のように。


 男は微かに目を開けた。

 「……ここは……」

 「《四葉亭》、雨宿りの家よ。あなた、名前は?」

 「……わからない。」

 その答えに、アリアの瞳がわずかに揺れた。


 「わからない、って……」

 「俺は……何かを、殺した気がする。」

 言葉が、雨に溶けた。

 アリアは黙ってその頬に手を置いた。

 彼の肌は冷たく、だがその下には確かな脈動があった。


 外では雷が鳴る。

 嵐が来る。

 それはまるで、忘却の祝祭のようだった。


 「中へ。……あなた、もうすぐ仲間たちが戻ってくるわ。」

 「仲間?」

 「ええ、探偵団。《四葉亭》はただの酒場じゃないの。」

 アリアの声は、どこか遠い過去の思い出をなぞるようだった。


 そのとき、扉が勢いよく開いた。

 「おい、アリア! また変なの拾って――」

 豪胆な声とともに、ライネルが入ってきた。

 重い鎧を脱ぎながら、濡れた髪を振る。

 その目は暗く、地の底に根を張るような重みをもっていた。


 「……誰だ、そいつは。」

 「道に倒れていたの。放っておけないでしょ。」

 「放っておけ。世の中には、放っておくべき死体もある。」

 ライネルは冷ややかに言い放ち、男の短剣を拾い上げた。

 「……血が新しい。殺しの現場から逃げてきたか。」


 アリアが反射的に庇う。

 「そんな言い方やめて!」

 「事実だ。雨で血は流されているが、匂いが残ってる。」

 彼の嗅覚は獣じみていた。

 戦場の男のそれだ。


 沈黙を破るように、二階から風が吹き下りてきた。

 軽やかな笑い声が混ざる。

 「また面白い拾い物してるじゃない、アリア!」

 シルヴィア――風属性の女盗賊。

 濡れた金髪を手で払いつつ、興味津々の目で男を見下ろす。


 「記憶喪失? それとも、惚けたふり?」

 「……本当に覚えていない。」

 「ふうん、そう言う奴に限って、いい秘密を持ってるのよね。」

 シルヴィアの声は甘い風のようで、どこか人を惑わせる。


 続いて、厨房の方から声が上がった。

 「なに、また厄介事? こっちは火加減が忙しいんだけど!」

 真っ赤な髪をまとめたマリーベルが、鍋をかき回しながら顔を出した。

 「雨の夜はいつもトラブルよね。まあ、暇つぶしにはなるけど。」

 「マリー、もう少し優しく言ってあげて。」

 「無理ね。生きてるだけで怪しい男に、優しさを使う義理はないわ。」


 男は黙って彼女らのやりとりを見ていた。

 自分が何者かも、何をしたのかもわからない。

 だが、彼女たちの声を聞いていると、

 なぜか“懐かしさ”が胸を締めつけた。


 その夜、雨は止まなかった。

 外の街路には、まだ人影がちらついている。

 通りを滑る黒い馬車。

 その中から、豪奢な服の男が降りた。


 「四葉亭の探偵たちを呼べ。」

 声は濡れた刃のように冷たかった。

 領主ガロット。

 その手には、白い布に包まれた“何か”を抱えていた。


 「娘が……殺された。」

 その言葉が落ちた瞬間、酒場の灯が揺れた。

 マリーベルが顔を上げ、ライネルが眉をひそめる。

 シルヴィアが冗談を呑み込み、アリアだけが目を閉じた。


 雨が屋根を打つ音が、ひどく遠く感じられた。

 外の闇は深く、冷たく、どこまでも沈んでいく。

 そして、男――“記憶喪失の暗殺者”の胸に、

 その言葉が残酷に響いた。


 ――娘が、殺された。


 その声に呼応するように、彼の右手が震えた。

 短剣の感触。

 刃の重さ。

 そして、血のぬくもり。


 「……まさか、俺が――」

 誰も答えなかった。

 ただ、雨だけが答えた。


 しとしとと、赦しのように。

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