第0150話 神を冒涜する儀式
酒場「四葉亭」の扉を押し開けると、湿った風が入り込み、天井に吊るされたランプの炎を小さく揺らした。
外の空模様はさらに荒れ、黒雲は夜を待たずに街を覆い尽くそうとしていた。
バネッサは足を重く運び、カウンターの一隅に腰を下ろした。さきほど広場で見た死者の顔が、まだまぶたの裏に焼き付いて離れない。
「ただの盗賊退治の依頼かと思ったが……どうやら違ったようだな」
ライネルが無骨な手で椅子を引き、隣に座る。声には疲労と、わずかな怒りが混じっていた。
「雷公の肝を狙うなんて、正気の沙汰じゃない」
マリーベルは杖を膝に立てかけたまま吐き捨てる。
「しかもそのために人を犠牲にするなんて……」
アリアは俯き、手を組んで祈りを捧げていた。だがその唇は震え、声にならない。彼女にとって神の象徴を汚す儀式は、信仰を根こそぎ揺るがすものだった。
「さて……依頼人の顔を、もう一度思い出そうじゃないか」
シルヴィアがワインを片手に、からりと笑う。
「“仇討を代わりにしてくれ”なんて泣きついてきたが……どうも臭い。あの時はただの未亡人かと思ったが、実は裏で何か企んでるかもしれない」
バネッサは深く息をついた。
――そうだ。あの女は夫を失ったと語った。雷に打たれて死んだと。だが、広場の痕跡を見てしまった今となっては、その言葉のどこまでが真実か分からない。
「依頼と代行……」
バネッサは低く呟いた。
「人の願いを預かることは、他人の“真実”を担ぐことでもある。でも、その真実が嘘でできていたとしたら……私たちは何を背負っているの?」
仲間たちは沈黙した。
問いに答える言葉を持たないのは、バネッサ自身も同じだった。
そのとき、扉が音を立てて開いた。冷たい風と共に、黒い外套をまとった人物が入ってくる。
フードの奥から覗く視線は、氷のように鋭い。
「――依頼を引き受けてくれたそうだな」
その声は女だった。酒場のざわめきが一瞬だけ途切れる。
バネッサは思わず立ち上がった。
「あなただったのね……夫を殺されたと言っていた」
女は無言でフードを外す。頬はこけ、瞳は憔悴と怒りで揺れていた。
「ええ。けれど、あなた方に隠していたことがある」
彼女の告白は、思いがけないひねりを含んでいた。
夫はただ雷に打たれて死んだのではない。――“雷公の肝”を巡る儀式に関わっていた。
四葉亭の空気が一変した。
仲間たちの視線が交錯し、疑念と恐怖が広がっていく。
バネッサの胸に、冷たいものが流れ込む。
――依頼は仇討ち。だがその裏には、神を冒涜する儀式と、さらなる犠牲が隠されていたのだ。