第0149話 魔術の痕跡
四葉亭を出ると、外は灰色の雲に覆われ、風が濡れた石畳を叩くように吹き荒れていた。空模様は人心の揺れを映すかのようで、バネッサはその冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、己の胸奥に巣食う不安を無理やり押さえ込もうとした。
「さて、行こうか。噂の現場はこの先の広場だ」
ライネルの声は土のように重い。視線は足もとを離さず、口数も少ない。
「んじゃ、私が先に偵察してくるよ」
シルヴィアが軽口を叩き、軽快に路地を駆けていく。彼女の背にマントがはためき、風そのものの姿に見えた。
残された三人――マリーベルは苛立ったように杖を握りしめ、アリアはそっと祈りをつぶやいていた。その姿を見ながら、バネッサは奇妙な違和感を覚える。誰もが何かに追い詰められているようで、しかしそれを口にはしない。
広場に着くと、そこには異様な静けさが広がっていた。屋台の跡、散乱する木片、割れた酒瓶。つい昨日まで人が賑わっていたはずの場所が、今は息を潜めるように沈んでいる。
「……雷に打たれたみたいだな」
ライネルが低く言う。
確かに、広場の中央には黒焦げになった石畳が円を描いていた。その中心には、奇怪な印が刻まれている。雷光に焼き付けられたかのようなその文様は、誰がどう見ても自然のものではなかった。
「こりゃただの事故じゃないな。魔術の痕跡だ」
マリーベルが吐き捨てるように言う。炎の気配をまとった眼差しは、怒りに揺れていた。
「……でも、どうして?」
アリアが震える声を漏らす。「雷は神の裁きの象徴。それを、誰が……」
そのとき、シルヴィアが駆け戻ってきた。
「へへ、裏通りで妙なもんを見つけたぜ。こっちだ」
案内された路地裏には、血の跡が点々と続いていた。壁に押し付けられたような赤黒い染み。その先には、粗末な布に覆われた遺体が転がっている。
バネッサは息を呑んだ。死者の顔は恐怖に引きつり、その胸には焼け焦げた傷跡が刻まれている。
「……雷公の生き肝を求める儀式、か」
誰よりも先に口にしたのはライネルだった。その声には確信がこもっていた。
「雷公……?」バネッサが問い返す。
「古い伝承だよ。雷を喰らい、その肝を手に入れれば、天すら斃す力が宿ると言われている。だが、それを狙うのは常に――見限られた者たちだ」
その言葉に、バネッサの胸がずきりと痛む。まるで自分の心を暴かれたかのようだった。
「……なら、この街に潜む誰かが、雷公の肝を狙っているというわけか」
マリーベルが怒気を込める。
「だとしたら、次の犠牲が出るのも時間の問題だな」
シルヴィアが笑みを消して言った。
バネッサは死者の顔をじっと見つめた。恐怖に見開かれた瞳は、まだ何かを訴えかけている気がした。
――安心していたことが、意想外の形で現実になった。
その思いが胸を冷たく締め付ける。
彼女はそっと立ち上がり、仲間たちを振り返った。
「……調べるわ。この印、そして儀式の目的を」
雷雲が遠くで鳴り響いた。
まるで誰かが、彼らの決意を試すかのように。