夏の日
これはとある夏の日のお話し
どこまでも広がっている青空が、太陽の光で少し白く輝く。
暖かな優しい風とお日様の香り。
幾つかの入道雲が湧き立って、重なり合って、厚くなっていく。その隙間から太陽が、なんとか顔を出そうともがいて、地面に薄明るい光を、筋のように描く。
どこに行こうとか当てもなく、ぶらぶらと歩く。こういう日も必要だよね。
ふと歩く足を止めて、空を眺める。
歩いたり、走ったり、忙しなく動いていると気がつかないけれど、その足を止めて静かにじっと眺めていると、雲も少しずつ、少しずつ時間の流れを刻んでいっているのがよく分かる。
そして、雲は太陽を隠したり、太陽は再びその隙間から顔を出したりとせめぎ合う。そのせめぎ合いは、地面に影となって現れていく。
足を止めて、地面を見つめる。聳え立つ数々の家々、そして自分の体が全くおんなじ形を成して、アスファルトの、強く焼けた地面に影を落としている。時間が経つと、影の濃さが変わって、消えたり、再び浮かび上がったりを何度か繰り返していく。
「みゃあ」
うん?猫……?
公園の中を歩いていた時、どこからか甲高い子猫の声がした。
まんまるいフォルム。全体的に白い毛に黒い斑点のような模様が二、三個。目は路傍に生えている草木の葉っぱの色によく似た、エメラルド色の瞳。影の下にずっと居たからなのか、瞳孔はまだ開いていて、目の奥には希望に満ちた多くの光を蓄えている。
首輪はついている。どこかの家の飼い猫だろうな。緑の中に映える赤い首輪。
「どこからきたの?」
猫に言葉が通じるわけないと分かっていながら、それでも私は小声で話しかける。
子猫は案の定キョトンといった顔でこちらを見つめてきたが、「みゃあ」と再び小さく鳴いた。それから私の前で後ろ足を大胆に広げて毛繕いを始める。
「人懐っこいんだな」
一生懸命毛繕いをする姿に癒されながら、何も無い日々をただ少しずつ刻んでいく。
と……突然子猫がピタリと毛繕いをするのをやめてこちらをじっと見つめ始めた。
うん……?何か付いているのかい?
直後。
ポツリ、ポツリと音がした。
太陽の光がもう、届かない。地面のグレーが、黒さを増していく。
先程まで映し出されていた葉の影も、光の色も消えていった。
土の地面の上に、空から落ちた水滴で小さな黒い模様がいくつもいくつも出来てくる。
服が、頭が、足が、小さな雫で濡れていく。少し肌寒い風を連れて、湿った空気が流れてくる。
「雨、降ってきちゃったね。ちょっとこっちにおいで」
子猫を傘の下に入れて、雨水で濡れないようにしてやる。
私の服も濡れて、湿っていく。少しのおひさまの香りを残した湿った雨が、服に染み込み、腕が、足が少しずつ冷えていく。
気持ちよく羽ばたいていた鳥達も、遠くにいる仲間達に声をかけながら木々の奥へ身を潜めるように隠れていく。
階段の横、せせらぎ。辺りの側溝に雨水が溜まっていき、その上に雨が落ちるたび、暴れるように跳ね始める。
ポツポツからザァッという音に雨の音色が変化していく。
水たまりの上を靴で踏む。
パシャン、水が小さく跳ねた。靴の中に染み込んだ。靴下が生暖かい雨水で濡れる。
太陽の光を浴びて輝いていた庭の花々は、今は花びらを閉じて、葉の上に雨を受けている。
私も公園の中にあった小屋の中に隠れて、雨が止むのを待つ。もちろん、子猫も連れて。
小屋の中の厚い窓に、自分の姿が反射してはっきり映る。外が暗いから、いつも窓越しに立った時には白い光の中でぼんやり映る自分の顔が、今でははっきり映っている。
ああ、だいぶ、濡れちゃったな。
お風呂上がりの時のように濡れた黒髪がくしゃくしゃになって、水滴が床に滴り落ちた。
「寒くはないかい?」
子猫の雨に濡れて小さくなった体から、ポタポタ水滴が滴り落ちている。このままだと冷えちゃうな。私はカバンの奥からタオルを出して子猫の濡れた体毛を拭いてやった。
子猫はとても気持ちよさそうな顔をして、俺の腕の中で眠ってしまった。その寝顔に癒されながら、私も雨が止むのをここで待つことにした。
何分かが経って。
降り続いていた雨の音が止んだ。空の上じゃない。屋根や木々の上から水滴が落ちてくる。
小屋のドアを開けて空を見上げる。
厚い雲が散っていき、再び太陽が顔をのぞかせる。先程とは違う。甘く、優しい香りだけじゃない。湿った空気、酸性の雨が運ぶ塩っぽい香りも混ざっている。
雨ごもりをしていた小鳥のつがいが縮んだ羽毛を震わせて、雨上がりの空を見つめて、「雨が止んだ、遊びに行こう」と鳴き始める。
乾き切った土の上に咲いた花々も、嬉しそうに根や茎葉っぱを揺らして、落ちてきた雨水を受け取る。
葉末の先にぶら下った水滴が、光を受けてダイヤモンドのような輝きを放つ。
あれだけ水を受けたのに、まだまだ水が欲しいと言うように茎を伸ばす花達。なんだか、小さくて可愛い。
と、眠っていた子猫の瞼が小さく動いた。薄っすらと目を開ける。私と目が合った。
あれ?寝ちゃってたの?とでも言うような顔。ウルっと光ったエメラルド色の丸い目。まだ少し濡れた毛。
「ほら。雨もすっかり上がったよ。君もそろそろお家にお帰り」
そっとしゃがむと、子猫は私の腕の中から飛び落りて、一度小さく身震いをすると、一人でに小屋の外に出て行った。
「それじゃ。今度は雨が降り始める前にお家に帰るんだよ」
歩いていく背中に小さく言う。聞こえているか、分からないけれど。
すると子猫は何歩が歩いたのち、一瞬こちらを振り返った。
それから小さく「みゃあ」と鳴いた。まるで「分かった」と返事をするかのように。
そして子猫ちゃんは、草むらの奥へと消えていった。
さて、そろそろ私もお家に帰ろうか。
少し生暖かい風を感じて、何気ない日常の中で、私はまた新たな光を見つけて、歩き始める。