クリーム色の店の
町を南北に流れる河川の脇の道を歩いていると、ひときわ目立つ喫茶店がある。この町の建物はどれも殺風景で、モノクロな景色の中にパステルの強いクリーム色が建物の壁一面に塗られていることで、この場所だけ別世界になっているようだった。
その建物の風貌とは裏腹に、店の中はいたってシンプルで、木目調の机がいくつか並んでいる、とても居心地のいい場所だった。メニューも普通の喫茶店と変わらないもので、そこで頂けるコーヒーは独特な美しい香りが味わえるので、とても評判が良かった。
僕がその喫茶店を訪れたのは、高校二年の春だった。
登下校中によく目に映っていたその喫茶店は、その見た目の奇抜さも相まって、進んで一人で入ろうという気にはなっていなかった。その日もその喫茶店に初めて足を踏み入れたのも、ほんの偶然だった。
その日は昼頃を過ぎたあたりから、だんだん空が曇り始めていた。数日前に発売されたゲームを家でやるのを楽しみにしていた僕は、学校の授業が終わると一目散に家に向けて駆け出していた。今考えるとばかばかしい話に他ならないが、その日は夕方から雨が降ることを知っていたので、傘を学校に持って行っていたが、その傘を学校に忘れてしまうほどゲームを楽しみにしていた。
案の定、僕は河川敷の道を走っていると、だんだん大粒の雨が降り出してきた。僕は少しの間だけは、「すぐ止むだろう」と思って走り続けていたが、だんだん雨脚が強くなり始めると、このままでは家に帰った時には全身ずぶ濡れになってしまうと感じ、途中の建物で雨宿りをすることにした。
そのあたりは住宅街で、あたりには雨宿りできる場所が多くなかった。その中で特に目を引いていたのが、例の喫茶店だった。他に雨宿りできそうなところもなかったので、喫茶店の前の軒下で僕は立ち止まっていた。
「どうかされましたか?」
喫茶店の軒下で雨が止むのを待っていると、途端に後ろから声をかけられた。
そこには、20代くらいのエプロンを着たとても綺麗な女性が立っていた。
「え、あ…その、すいません」
「いいんですよ。良かったら中に入りませんか?」
僕はその女性に見惚れてしまっていたのか言われるがまま、喫茶店の中に入った。喫茶店の中はとても落ち着いた雰囲気なのには少し驚いた。店の中には客は一人もいなかった。店の中の落ち着いた雰囲気。それに合わせた絵画や観葉植物が配置されている。その女性はカウンターで僕にコーヒーとケーキを差し出してくれた。
「あ、すいません。僕、お金持ってなくて」
「お代は大丈夫ですよ。今日は店じまいで余ってたものなので」
そういって女性は部屋の奥に行ってしまった。ブラックのコーヒーは当時の僕には苦すぎて飲めなかったが、その女性に少しでも大人な所を見せたくてそのまま飲み干した。ケーキはとても甘くておいしく感じた。
雨が止むと、女性にお礼を言って、その喫茶店を出た。それから僕は喫茶店の中を、登下校中によく覗き込むようになってしまった。
それから2年が経ち、僕は高校を卒業するタイミングで都会の大学に通うためにこの町を離れることになった。あまり思い入れのない町だったが、最後に一度だけ立ち寄ったあの喫茶店に行こうと思って、思い切って扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
透き通る声が、店内に響いた。その日も客は一人もいなかった。二年前と同じようにエプロンを着た綺麗な女性がカウンターに立っていた。
でも、その人は二年前の人とは違う人だった。今日の人は短い黒い髪の人で前の人よりも若く感じた。
僕はカウンターでコーヒーとケーキを注文すると、その女性に二年前にこの喫茶店で出会った女性のことを聞いてみた。
「そんなことがあったんですね。おそらくお客さんが会ったのは私の姉だと思います」
「お姉さんだったんですか?」
「そうです。でも昨年亡くなりました」
その女性、妹さんは淡々と話されていた。この喫茶店はあまり人が来ないらしい。喫茶店を利用するような世代の人がそもそも少ないことと、奇抜な店構えから初見客には入りにくいようになっているからだそうだ。
「お姉さんのこと、もっと詳しく聞いてもいいですか?」
僕がそういうと、妹さんは優しい笑顔で包み隠さずすべてを話してくれた。
この店は2人の両親が経営していた店だったが、両親は高齢のために引退した。その店を引き継いだのが、お姉さんだった。お姉さんは誠実に店のために働く人だった。ある時、お姉さんが店で出会った男性に恋をした。やがて、二人は交際することになったが、彼氏の方はお姉さんにお金を要求したり、暴力を振るうようになってしまった。彼女はずっと堪えていたが、最後にその彼氏は彼女が経営していた店に対しても暴言を吐くようになり、やがてネット上で悪い噂を流すようになった。だんだん精神を病んだ彼女は昨年、自殺したという。
「姉は何も悪いことはしていないんです。ただ、当時の彼氏が最初は姉のこの店が好きだと言ってくれたことが嬉しかったみたいなんです」
「でも、結局この店のことを悪く言ってたんじゃないですか」
「ええ、でも姉は彼のその言葉をずっと信じてしまってたんですね」
お互いに沈黙が流れていた。妹さんが出したコーヒーの味は、お姉さんが出してくれたコーヒーの味と変わらなかった。
「その……この店が悪いってことは僕にはわかりませんけど、あまり経営がよくないんなら、せめて外装とか変えてみてもいいんじゃないですか?」
「それも、難しいですね。姉は小さい頃からこのクリーム色がすごく好きで、両親もこの店の色が好きだったんです。亡くなった姉のためにも、この色はずっとこのままだと思います」
僕はお金を払った後、その喫茶店を後にした。
ネット上でその喫茶店の評価を検索してみると、低評価ばかりで、いろんな言葉で罵倒されていた。黄色い外装が気持ち悪いというコメントが、僕は頭の中からしばらく離れなかった。
8年の歳月が経った。大学を卒業した僕は、桜が咲くこの河川敷の一角にある喫茶店の前にいた。
大学の卒業後、僕は雑誌の出版社に就職した。おいしいカフェを巡るコーナーを自分で作り、その第一弾としてこの町の、この喫茶店を選んだ。結果的にこのコーナーは盛況で、妹さんの経営する喫茶店には少しずつ人が賑わい得始めていた。
「まさか、姉のためにここまでしてくれたんですか?」
「まあ、そうですね。お二人の出してくれたコーヒーとこの店が好きだったので」
店の中の隅に飾られたお姉さんの写真は、妹さんと同じような優しい笑顔をしていた。