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7.「3分26秒」

 大悟は一瞬にして、背中に流れる汗を感じた。

 店に来たのは自分の母親で、しかも凛子はその女性を「お母さん」と呼んだのだ。

 凛子と自分は兄妹?? いや、母親は確か71歳のはずだ。60代過ぎて妊娠できるという女性の話は聞いた事がない。

 瞬時には、いや時間をかけても理解する事はできなかった。

 台風と大雨が同時に来た程度ではない。隕石の衝突と氷河期が同時に来たような衝撃だ。

 実際、大悟はその時、驚いた顔のまま氷で固められたトリケラトプスのような顔をしていたかもしれない。


 母親の清恵は、大悟を見ても表情が変わらなかった。娘がお世話になっておりますとでも言うような穏やかな笑顔で大悟を見ていた。18歳の時から一度も会っていないのだから、気付かないのも当然だ。清恵は軽く会釈をし、「凛子が迷惑をかけてすみません」と言い、凛子の隣の席に腰を下ろした。


 大悟も挨拶をしようとしたが、「あ、いや……」など、曖昧な言葉しか返せず、腰を下ろした。

 大悟は恐る恐る「こちら……お母さんなの?」と、凛子に尋ねた。

「うん!」

「お婆ちゃんだから、びっくりしたでしょう」と、清恵は言った。昔に比べて話す速度は少し遅くなっていた。

「あ、いや、そんな事は……」大悟は自身を落ち着かせるために、アイスコーヒーのストローを吸ったが、グラスの中はほとんど氷だけになっていたため、ズズーという鈍い音だけが響いた。

 その音を聞いて、凛子は笑った後、すぐに眉根を寄せて、「私、トイレ」と立ち上がった。

 清恵はわざとらしく驚き、「いつもは自分の事、凛子って言うのに。『私』だって。お姉さんになったみたい」と言った。

 凛子は「オーヤケのニンチショウは私」と、自慢げに言った。子どもは言葉を音で覚える。

 店の奥に走っていく凛子に、マスターが「一人で大丈夫?」と聞いた。

 凛子は指でVサインを出した後「覗かないでよー」と言った。

「えー、覗いちゃダメなのー?」

「ダメー」と言って、凛子はトイレの扉を閉めた。


 席に母親と二人きりになった大悟は、居場所を失っていた。



 マスターが清恵の前におひやを置き、「大悟くん、お代わりは?」と言った。

「あ、いや、私は」と答えた後、心臓が跳ねた。名前を呼ばれたのだ。大悟は、マスターに視線を向けた。

「もう何年も、実家に顔出してなかったんだって? 凛子ちゃん、大きくなっててびっくりしただろ?」マスターはそう言った後、眉を歪ませた大悟の顔を見て「あれ? 違うの?」と言った。


 自分はあの子に会った事があるのか?


 大悟はマスターの真意を探ろうと考えを巡らせたが、マスターはピンキーおじさんが大悟であることに気付いていたということしか分からなかった。


「この人は、勘違いしてるんですよ」清恵が口を開いた。「私には大悟っていう息子がいましてね。もう何年も前に出て行ったんです。その息子とあなたを勘違いしているんですよ」

 大悟は言葉を返すことができなかった。

「10年ほど前かな。結婚したって聞いたんですけど……」

「え……」大悟は思わず声を漏らした。母親が自分の結婚を知っているはずがなかったからだ。「それは……息子、さん、から?」

「いえいえ、息子のお嫁さんが、結婚の挨拶に来てくれたんですよ。息子には反対されて、黙って来たみたいです」

「そ、そうだったんですか……」鏡子は自分よりも、幾段も大人なのかもしれない。

「流石に離婚した時は、来てくれなかったけど」清恵は結婚のことばかりか、離婚のことまでも知っていた。「最後に彼女が来てくれたのは、5年前かな。泣きながら、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて……」

「赤ちゃん?」

「息子との子どもだって言ってました」


 5年前の赤ちゃん……当然、現在のその子の年齢は、5歳だ。

 大悟は必死に平静を装った。


「離婚後に妊娠が分かって、でも、どうしても堕胎する事ができなくて。最初は息子に黙って、一人で育てるつもりだったけど、どうしても無理で……」感情を込めず続ける清恵の話は、昔話のように聞こえた。何かを訴えようとしているようにも、誰かを責めているようにも聞こえなかった。「捨てようかとも考えたけれど、最後の望みと思って私たちのところに来たそうです。息子は音信不通で、連絡を取る事ができなかったので、私たちで育てる事にしたんです」


 しばらくの間、沈黙が続いた。店内の音楽だけが静かに流れた。


「なんで、私にそんな話を……」訊きたい事は無数にあったが、大悟にはそれしか口にできなかった。

「年を取ると、話をする相手がいなくなってきますから。話を聞いてくれる人を見つけると、相手が誰であろうと、とっ捕まえて無理やり話を聞いてもらうんですよ。そういうものなんです」清恵の話し振りからは、本心なのか、嘘を吐いているのかは分からなかった。


「大悟くんが戻って来てくれたらいいのになあ」マスターは、ピンキーおじさんが大悟であるという考えを撤回したのか、単に清恵の意見に乗っただけなのかは分からなかったが、自身の意見を述べた。「ほら、大悟くん絵上手かっただろ? あいつが居てくれたら、八百屋のPOPとか、広告とか……ご主人が亡くなってから、清ちゃんも一人で大変だし。なあ」マスターは清恵に同意を求めた。

 清恵は口元に薄っすら笑みを浮かべて言った。「別に、いいよ。生きてさえいてくれれば」彼女の目は、テーブルを見つめていた。


 凛子がトイレから出てきた時、大悟の姿はなかった。大悟が座っていた席のテーブルには、スケッチブックが残されていた。


 17時58分――

 昼に来た時よりかは幾分か薄暗くなっていた。屋上ビアガーデンの席は半分ほどが埋まっていた。酔っ払いの声が飛び交う中を、大悟は観覧車に向かって歩いていた。そして、券売機で観覧車のチケットを買った。若い二人のスタッフは大悟を訝し気に見たが、老人スタッフは笑顔で大悟を迎えた。


 大悟は老人スタッフの前で立ち止まり、俯き加減で言った。

「頭を、撫でてもらえますか」


 老人スタッフは少し驚いた様子を見せたが、すぐに笑顔に戻り、大悟の頭を撫で、「いらっしゃい、よく来たね」と言った。


 最後の観覧車は大悟を乗せ、ゆっくりと彼を運んで行った。


 たった、3分26秒――

 大悟が新しい決断を出すには、十分な時間だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

思えば、本作が初めて書いた小説だったように思います。


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