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2.赤は止まれ

 大悟は東京都大田区の蒲田で生まれ育った。実家は商店街からわずかに離れたところで八百屋を営んでいた。母は37歳で初めて産んだ彼を、時には丁寧な育成が必要な高級レタスのように、時には雑に扱っても元気に育つパセリのように、しかし大切に育てた。

 小学校に入る前から漫画を描く事に興味を持った大悟に、両親はクレヨンや色鉛筆、スケッチブックなど、いろんな画材を買い与えた。


 中学3年生の時、両親に「卒業したら漫画家のアシスタントになりたい」と告げたが、父親は真っ赤な顔で猛反対をした。もし、正面から車が来たら、運転手は彼の顔を赤信号と間違えて、ブレーキを踏んでしまうほどの赤だ。

 父親は一人息子に八百屋を継がせたかったのか、それとも漫画家という不安定な職業自体に反対をしたのか、反対理由が明確ではないことが、余計に大悟の漫画家への熱の激化へと導いた。


 高校に通いながら独学で漫画の勉強をし、アルバイトでお金を貯めた大悟は、両親に黙って代々木にある漫画家の養成学校を受験した。絵の技術を伸ばすためには美大に通うことが得策であることは分かっていたが、当然そこまでの金額を貯めることはできなかった。

 彼は勝手に養成学校を受験し合格したことを両親に告げると、父親は3年前と同じ色の顔で激怒した。予想通りである。


 大悟は逃げ出すように実家を後にし、東京で独り暮らしを始めた。

養成学校卒業後は漫画家のアシスタントには就かず、商品デザインの会社にアルバイトとして勤めながら、漫画家を目指した。雑誌のコンクールには何度も応募した。一次審査、二次審査を通過することは何度かあったが、最終審査まで残ったのは25歳の時の一度だけだった。しかし、最優秀賞や優秀賞はもちろん、佳作や審査員特別賞に選ばれることもなかった。

 その後、作品を出版社に持ち込み、担当者に読んでもらうことは何度もあったが、読み切りですら雑誌に掲載されることは一度もなく、次第に持ち込む頻度は少なくなっていった。


 34歳の冬、大悟は勤めているデザイン会社の社員登用制度を利用しようと、2つ年下の上司、菱沼ひしぬまに進言しようと考えていた。漫画家の道を諦めたのだ。長年自分を雇ってくれている会社に、正社員として骨を埋めることを決断するには良い年齢だと思った。

 詰まるところ、父親は間違っていなかった。赤信号で停車するべきだったのは、大悟だったのだ。


 大悟はゆっくりと自席から立ち上がり、大きく息を吐いてから、歩きだした。そして、菱沼の机の前で立ち止まり、恐る恐る口を開いた。

「あの、菱沼さん……少々お話があるのですが」

 菱沼は顔を上げ、前に立っている人物が大悟であることに気付くと口元だけの笑顔で「ちょうど僕も、伊藤さんに話があったんですよ」と、立ち上がった。


 会議室に先に入った菱沼は、席に着くよりも早く口を開いた。

「3月の契約満了時点で、伊藤さんには会社を辞めていただこうと思いまして」そう言い終わると同時に椅子に座った。

「……え?」突然の出来事に、理解が追い付かなかった。

「申し訳ないんですが」そう言った菱沼の顔に、申し訳なさはなかった。

「私は、会社の社員登用制度を活用させていただこうと……」

「あー」菱沼は、そんな制度もあったねと言わんばかりの声を出した。「残念ですが。社員登用制度とは役に立たないバイトでも社員にしようという制度ではないんですよ」残念さは微塵もなかった。

「実績は、あります」確かに大悟は、過去に数点ヒット作品を出していた。

 菱沼は大きなため息を吐き、「何年前の話ですか」と言った。「デザインには、20代の若い感性が必要なのはご存知でしょう。アイデアは枯渇し、過去のポテンヒットにいつまでもすがり、その上、人をまとめる能力もない。正直、使いどころがないんですよ」

 大悟の人生を全否定するような菱沼の言葉に、悔しさと情けなさを感じながらも「社員登用制度は嘘なんですか!」と言い放った。思った以上に声が震えた。

「だからぁ。自分の無能さを会社の所為にするのはやめましょうよ」菱沼は、物分かりの悪い子どもに言い聞かせるように言った。「ただ、どうしてもと言うなら……」

「言うなら……」大悟は唾を飲み込んだ。

「沢村くんに辞めてもらうか」

 大悟は菱沼が言っている意味が理解できなかった。なぜここで、入社10年にも満たない、沢村の名前が出てくるのだ。

「実際、誰かに辞めてもらうというのが会社の方針なんですよ」菱沼はボールペンの裏を机にコツコツと当てながら続けた。「沢村くんは子どもさんが産まれたばかりで大変なんですよね。その上、子どもさんは体が弱くてお金がかかるらしいんですよ……その沢村くんに辞めてもらうしかないかなぁ」

 菱沼の言いたいことが分かった大悟に、それ以上反論の言葉を口にすることはできなかった。


 沢村の事を思えば、自分の判断は間違っていない。大悟に後悔はなかった。そして、舐めてもいた。再就職先はすぐに決まると高を括っていたのだ。

しかし、40社受けても、面接に辿り着けたのは3社、更に先に進めた会社は皆無だった。再就職できない程の年齢ではなかった事が、余計に彼に無力さを感じさせた。

 失業保険の支給はとうに打ち切られていた。貯金も殆どなく、なんとか食い繋いでも1週間程で底をつく状態だった。


 大悟は自殺を決意した。そして、自殺の決行場所に生まれ育った蒲田を選んだのだ。

最期に両親に会いたい、そんな気持ちはなかった。高校を卒業してからは連絡を絶っていたから、両親がまだこの町に住んでいるのかも、生死さえも分からなかった。

 生まれた場所で死ぬ事により、自分自身が生まれてこなかった事になる、そんな思いに至ったのだ。

 大悟に家族はいない。深い付き合いの友達もいない。大悟が生まれる前に戻っても、誰も困らないのだ――

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